引き戸のカギを開けて、玄関に入る。
とたんに出汁の匂いが鼻をくすぐる。靴を脱いだ天照は、そのまま左手奥の台所に入る。
「ただいま、ばあちゃん」
「テル坊。お帰り」
白髪まじりの小柄な女性が、鍋の前に立っている。天照の祖母、ヒデだ。自分で”天照”という名前をつけておいて、言いにくいからという理由でヒデは天照を”テル坊”と呼んでいる。ヒデだけではなく、家族みんながそう呼ぶ。

「腹へった。なんぞ食うモンない?」
「帰って来るなり、それかいな」
きつい口調だが、声は優しい。
「冷蔵庫にプリン入ってるさかい。1コだけ、食べとき」
「わかった」
冷蔵庫からプリンと、ついでに水も出して飲む。

「先に手エ洗(あろ)てから食べんのやで。1コだけやで」
「はいはい、と」
「”はい”は1回」
「はい」
ヒデを本気で怒らすと怖い。天照は自分の胸ほどしかないヒデに、まったく頭があがらない。言われたとおり、まず手を洗い口をゆすいで、それからプリンを持って2階の自分の部屋にあがる。

6畳の和室は、左手にベッド奥に勉強机があるだけの簡素な部屋だ。まだ越して来たばかりだから仕方がない。天照は窓を開けると、ベッドに腰かけてプリンを食べる。
それにしても、だ。天照はさっきの事を思い出す。昼休みの時間に、委員長に校内を案内してもらっていた時、3年生にからまれた。その場は天照の機転で難を逃れたが、問題は放課後だ。

校門を出ようとした天照に、昼間の3年生数人が寄ってくる。
「よお、転校生」
何がおかしいのか、ヤニで汚れた歯を見せて笑っている。
「おまえ、まだ石上さんにアイサツしてへんのやろ」

また”石上”だ。どうやら転校してきた者は、石上に挨拶するのが決まりになっているらしい。
「俺らが連れていったるさかい」
だが、天照には挨拶をする義理はない。近づいてくる3年生に、
「いえ。遠慮しときますわ」
言って、体をかわして行こうとする。

「ちょお、待て!」
その天照の肩に手をかけ、一人が声をあげる。
「俺らが親切で言うてんのに、遠慮しますて、どうゆうこっちゃ!」
どうにも沸点の低い連中だ。

こんな連中、天照がその気になれば造作もないが、今はガマンする。
「センパイ。手エ離してもらえます?」
掴まれた肩と掴んだ者の顔とを交互に見て、落ち着いた声で言う。
「せやないと、大声、出すますよ」

「アホか! そう何度も同じ手に引っかかるか!」
その顔を見て一歩退くと、天照は大きく息を吸う。3年生たちは昼間の天照の大声を思い出して、とっさに耳をふさぐ。
手が自分の肩から離れた瞬間、
「なんちゃって」
天照は舌を出して、あっという間に走り去った。

・・・あん時の、あいつらの顔。
目をつぶり耳をふさいだ必死な顔を思い出して、天照は機嫌よく笑う。
「テル坊。ご飯できたで」
下からヒデが呼んでいる。すぐに行かなければ、また説教だ。
「おお、今行くわ」
返事をして、天照は下におりて行く。

「ほな、いただきます」
「いただきます」
畳敷きの居間に台を出して、皿を並べる。一汁三菜に毛がはえたような質素な夕食だが、天照は手を合わせてハシを取ると、一心不乱に食べ始める。

「テル坊、ガッコはどうやった?」
自分はゆっくりハシを動かしながら、ヒデは訊く。
「ばあちゃん、おかわり」
それには答えず、天照はさっそく空になった茶碗を差し出す。

「アホか。おかわりくらい、自分でよそい」
「うん」
「”うん”やなくて、目上の人には”はい”。いっつも言うてるやろ。ホンマにこの子は」
「はい」
お説教になる前に、天照は自分で茶碗に山盛りの飯をよそう。

「それより、新しいガッコはどうやったて訊いてんね」
「まあまあや」
「なにが、まあまあや」
タクワンをハシでつまんで、まだまだ丈夫な歯でバリバリ食べながら、ヒデは言う。
「ええか。あのガッコは、テル坊のお父ちゃんとお母ちゃんが、ほうぼうに頭を下げてまわって、ようやく入れたガッコなんやで」

「ああ」
「バカ高い授業料払(はろ)て、家族と離れてこの家から通うハメになって。それもこれも、全部テル坊が原因なんやで」
天照を睨みつけて、
「わかってんのか?」
きつい声だ。

「わかってるて、ばあちゃん」
天照は静かに答えて、お茶を飲む。
天照が高校2年生の夏休み明けという中途半端な時期に、わざわざ親元を離れて、祖母の家にやっかいになってまで転校したのには、わけがある。

ヒデがことさら厳しい事を言うのは心配の裏返しなのだと、ちゃんと天照は分かっている。
「今度の学校はお坊ちゃんばっかりやさかい、ばあちゃんが心配するコト、なんもない」
「ホンマか?」
「ホンマやて。ヤバくなったら、走って逃げるよって」
そして、ヒデを安心させるように、ニッコリと笑った。



理科棟と体育館の間には、使われなくなった倉庫がある。元は体育用具などを収納していたが、今は壊れた机や雑多な物の物置になっている。いずれ取り壊される予定のこの倉庫に、ほとんどの生徒は近づかない。

「で?」
イスにふんぞり返って座る男は、首をうなだれて立つ数人を睨みつける。いつか天照にからんできた、3年生の不良どもだ。
「例の、なんたら言う転校生。どないなっとんね?」
190cm、100kgを超すこの巨漢が、不良たちを束ねる石上だ。石上から不機嫌な声で訊かれて、ますます不良どもは震え上がる。

「そ、それが、何度もツラ貸すように言うてんのでっけど、その度にすっぽかしよって」
「アホ!」
古い倉庫全体が揺れるような怒号に、不良どもは顔色をなくす。
「なに甘いコトやっとんのや! 来んのやったら、首にナワつけてでも引っ張ってこんかい!」
「す、すんませんっ」
顔色をなくした不良どもは、何度も頭を下げる。
「待ち伏せもしたんでっけど、今度は走って逃げよるし」
「アホみたいに、逃げ足が早(は)ようて」

「アホか!」
2度目の怒号に、いっせいに首をすくめる。
「とにかく、あんな転校生ごときにナメられてたら、しめしがつかへんのや」
大きくため息をつくのを、ただポカンと見ている不良どもに、
「わかったら、サッサと行って連れて来(き)い!」
「は、はいっ!」
イライラと言えば、我れ先に古い倉庫から出て行く。

「ったく」
その後ろ姿にニラみをきかせておいて、深く息を吐く。
「石上」
急に後ろから名前を呼ばれる。たったひと言、低くてよく響く落ち着いた声で呼ばれただけだ。にもかかわらず、石上は、慌てて直立不動の姿勢をとる。

「そ、総長。なんぞ、ご用でしょうか?」
石上の立つ位置からは、”総長”と呼ばれた男の姿は上半身がカゲに隠れていて、表情までは分からない。
「用という用でもないけど」
男は長身でバランスのとれたシルエットをしている。ほとんど感情のない声なのに、石上は不必要なほどに汗を流している。

「その後、例の転校生、どないや?」
「はいっ。それが、図体のわりに逃げ足の速いヤツで」
「まだ直接会えてへんのか?」
静かな口調のまま、少し語尾を上げただけだ。

「す、すんませんっ!」
だが石上は顔色をなくして、頭を下げる。
「その転校生、ミナミから転校して来たらしな」
「はい」
「こんな中途半端な時期に、それもミナミからの転校て、なんや引っかかる」

男はここで少し言葉を切って、
「石上が直接会(お)うて、どんな目的で転校して来たんか。確かめといてんか」
「はい、必ず」
「頼んだで」
男はそれだけ言うと、現れた時と同じくらい唐突に、古い倉庫から姿を消す。

「ハアー」
一気に緊張がとけて、石上はイスに座り込む。蒸し暑い室内を寒く感じる程、男の存在感は大きい。冷静でほとんど感情のない男の言葉の裏側にある恐ろしさを、石上は知っているからこそ、余計に寒く感じたのかもしれない。
学園の不良を束ねる石上をこれほど恐怖せしめる男の正体を知る者は、ごくごく少数だ。

とにかく、男に命じられた事をたがえれば、どんな恐ろしい目に遭わされるか。
それを想像して、石上はその大きな体をひとつ振るわせた。




  2013.01.02(水)


    
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