朝は7時前に起きて、恒一郎の朝食を用意する。それから恒一郎を起こし、一緒に食事を摂って
おくり出したあと、そうじに洗濯。
午後は電話やネットで食料品などを注文し、夕食のしたくをしてフロを沸かして、いつ帰って来る
ともしれない恒一郎を待つ。
その後、食事をして後片付けをし、フロに入って寝る。

これが歩の新しい生活パターンだ。当初、恒一郎は快く思ってはいなかったようだが、1週間たち、
2週間たつうちに、何も言わなくなる。
きっと家事の煩わしさから開放されて、せいせいしているのだろうと、歩は思う。

歩にしてみれば、こんな専業主婦の真似事は、居候の代償だとわりきったものだ。観葉植物に
水をやるのと、同じような感覚だ。それに、もともと家事は苦にならないし、恒一郎に尽くす類の
行為ではない。

初めは、朝夕、自分の作った料理を文句も言わず食べてくれる恒一郎に感動したものだが、
一緒に暮らすうち、そうではない事に気づく。
恒一郎という人間は、食べるとか住むとか、そういう生活一般にはまったく関心がない事に。

すなわち、恒一郎にとって食事は飢えを満たして栄養が摂れさえすれば、味などどうでもいいのだ。
文句を言わなかったのは、せっかく作ってくれたからとか、残したら失礼だから、なんて感覚が
働いているからではなく、たかだか食事ごときに手間をとりたくなかったからだ。

「…ハァ」
すっかり冷めてしまった煮魚を前に、歩はもう一度ため息をつく。今夜もまた、恒一郎は遅くなる
のだろうか? 勝手に待っている自分も悪いと思うが、せめて食事が要るかどうかくらいは、連絡
して欲しい。
そう考えて、鳴らない電話を横目で見る。

とたんに、シクシク下腹が痛みだす。
「たまちゃん」
胎動を感じ、生む覚悟を決めた時、胎児に名前をつけるとより身近に思えると、晶が提案して
くれた。それ以来、お腹の子に”たまちゃん”と呼びかけている。

「かんにんな、たまちゃん」
だいぶ目立ってきたお腹に手をあて、歩は優しく語りかける。
「僕のイライラや不安が、たまちゃんのストレスになってんのやろ。かんにんな」
どう気持ちをとりつくろっても、お腹の子にウソはつけない。
「僕もがんばる。せやさけ、たまちゃんも、もちょっと辛抱してや、な」

そこまで話した時、玄関の戸が開く音がする。恒一郎がようやく帰ってきたようだ。
歩はテーブルに手をついて立ち上がる。玄関へと行けば、恒一郎が背中を向けて靴を脱いでいる。
中で歩が待っているのが分かっているくせに、いつも自分でカギを開けて入ってくる。

「おかえりなさい」
「ああ」
ただいまと、言ったためしもない。

「お疲れさまです。いまフロ暖めなおします。それとも、ご飯が先がええですか?」
「いや、メシは食うて来た」
近くに立てば、かすかにアルコールの匂いがする。
「お酒、飲んではるんですね。ほな、お茶漬けでも、」

「女房ヅラ、すんな」
「え?」
ソファにカバンを置き、ネクタイを緩めながら、低い声で言う。
思わず顔を見れば、少し赤い顔で目がすわっている。悪酔いしているようだ。

「毎晩毎晩、あてつけのように夜遅うまで待って。とがめるような目で俺を見て」
酔っ払いの言う事だと、唇をかんで黙って聞いている。
「待ってろて、言うた覚えはないで」
「僕が至らんで、すんまへん。今度からなおしますさかい」

「なおす、て、どこをどう、なおすんや」
やけに今夜は絡んでくる。ネクタイを抜き、上着を脱いで、酒臭い息を吐きながら顔をのぞき
こんでくる。
いくら酔っているとはいえ、恒一郎らしくない。

「だいたい、なんで男のおまえが妊娠するんや。世の中の道理を越えているやないか。そんな
バカなコト、あってええんか?」
いまさらの事を蒸し返す。
歩は拳を握り締め、口を真一文字にむすんで、恒一郎を睨みつける。

「なんやその顔は? 不満があるんか?」
「ありません。けど…」
「けど、なんやねん。…ったく、いっつも、おまえはそうや。俺に従順な態度をとっておきながら、
その実、心の奥底ではなにを考えてるか、ちっともわからへん」
「…」
「つき合(お)うてる時かて、そうや。約束を守らへんでも、冷たくしても、恨みゴトひとつ言わへん。
けど、必ず哀しそうな目で、俺を非難するんや」
酒の力を借りて、恒一郎の本音が出てくる。
暴君のように君臨し、自分の事など虫1匹くらいにしか認識してないだろうと思っていた歩にとって、
恒一郎のこの言葉は驚きだ。

と、同時に、身勝手なもの言いに、だんだん腹がたってくる。
「反論せえへんのやな。なんも言いかえさへんのは、従順なフリして、心の中で悪態をついてる
からか! それとも、お腹の子は、俺の子と違うからか!」

「な、なんやて」
そのひと言に、歩はカッと顔に朱を散らす。
「顔色が変わったな。図星やったんやな! 俺の子と、ちゃうんやな!」

「あんたの子や!」
びっくりするほど大きな声が出る。
「あんたの子に決まってるやろ! 他の男の子なわけない! あんたとつき合(お)うてた3年間、
僕はあんた一筋やったんや!」
「ウソや」
「ホンマて! もォ、どうして分かってくれへんね! 僕には恒一郎さんだけやのに!」

いくら酔っていても、あまりにひどすぎる。歩は怒りで顔を赤くして、恒一郎のシャツをつかむ。
自覚のない涙が、ボロボロとこぼれ落ちる。
「あんたが好きなんや。いくら冷たくされても、あんたを恨んだコトなんかない。好きで、好きで、
心底惚れてたんや。それを、」

キューッと、下腹に痛みがはしる。今まで経験した事のない、ちぎれるような痛みだ。
「い、痛ァ」
たまらず、お腹をおさえて膝をつく。
「お、おい」
「ううっ」
仰向けに倒れる。呼吸をするのもつらい。
…あんまり僕が怒ったもんやさかい、たまちゃんまでヘソまげてしもた。
だんだん遠くなる意識のなかで、歩はそう考えていた。




  2011.12.21(水)


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