歩は、少しせり出してきたお腹が楽なように、イスに浅く腰かける。
今日は晶の病院で、診察を受ける日だ。いつもは晶ひとりに診てもらっているのだが、今夜は
もうひとり、見知らぬ男が立ち会っている。

「紹介するわ。まえ外科医の友人に手伝どうてもらうて、言うたでしょ? 坂口正孝(さかぐち
まさたか)先生。大学病院勤務よ」
「はじめまして、坂口です」
小柄でジャガイモのような顔をした男は、手を差し出して握手を求める。

「あ、姫里歩です」
手を出せば、にっこり笑ってグッと強く握ってくる。外科医らしからぬ無骨な手だ。だが、笑うと
愛嬌のある顔に、歩の警戒心は解かれる。

「なんも心配いらんのよ。坂口先生のお父さんとうちの父は、昔から知り合いでな。小さい頃から、
ちょいちょい会(お)うてるんよ」
「殿村先生は、小さい頃から気が強くてな。僕なんか、しょっちゅう泣かされとったわ」
「僕もです」
同意すれば、もう一度にっこり。

「なんよ、あなた達」
歩が坂口に対して打ち解けた口調になったことで、晶はホッとしたようだ。
「とにかく、歩くんの症例は、今まで誰も経験してないコトだらけさかい。信用のおける腕のたしかな
人に診てもらわな。その点、坂口先生は適任やわ」
「僕は性同一性障害の人もサポートしてるのや。姫里さんは今、女性ホルモンも投与してるそう
ですね」
「はい」

生むと決めたからには、健康に五体満足で生まれてきて欲しい。そのためには、信用できる人に
協力してもらいたい。
「ほな、診察台に横になって。坂口先生にも、一緒に診てもろてええやろ?」
「かまへん」
今までの歩なら、妊娠したこの体を、初対面の人間に診せるなんて、考えられない事だ。だが、
今は胎児の健康を最優先に考えている。

「だいぶお腹が出てきたわね。キツいコトない?」
「階段とか、座りっぱなしとか、キツい」
「そう」
「体調は、どうです? 目まいや吐き気はあります?」
「20週過ぎて、安定期に入ってからは、特に体調の変化は感じません」
「体重の増加も、想定内やしな」

晶と坂口に、かわるがわる問診されるが、言いよどむ事なく落ち着いて答えられる。それは触診
される時も同じだ。
「私が一番心配してるのは、歩くんに女性ホルモンを投与してるコトや。妊娠を維持するギリギリの
量を処方してるんやけど、影響は個人差が大きくてな。客観的に判断でけへんのよ」
晶は歩のカルテを坂口に見せながら、そう説明する。
「坂口先生、どう思う?」

「このカルテの内容と、今の姫里さんの状況から判断して、殿村先生の処方は間違ってないと
思うで」
この言葉に、歩も晶もホッとする。
「体の変化で、気になるコト、あります?」
「おちちが張ったように感じます。それにヒゲも薄くなったし、腰まわりに脂肪がついたみたいで」
「女性ホルモンの影響でそうなってるだけで、心配するほどとちゃいますよ」

この坂口という男、見かけよりずっと優秀な医師のようだ。未知の不安を感じているだろう歩に、
安心するよう表情をなごませ、分かりやすい言葉で説明してくれる。
「坂口先生、エコー(超音波)確認する?」
「姫里さんが嫌やなかったら」

「どうぞ」
きっと坂口は、晶がそうであるように、お腹の子の味方になってくれるだろう。
歩はにっこり笑って、同意する。

「ああ、手が見えるわ」
「ホンマや」
晶と坂口は、白黒の画面を凝視している。

「晶ちゃん、順調か?」
「ええ。20週目に入ったにしては、少し小さめやけど。大丈夫よ」
「良かった」
ホッと、安堵の息がもれる。
今まで無茶苦茶な事をしてきただけに、大丈夫と言われると安心する。

「ホンマ、嬉しそうやね」
そんな歩を見て、晶は微笑みかける。
「うちに来る妊婦さんも、順調ですよて言うと、そんな顔しはるわ」
「うん」

歩は自分の下腹のあたりを見て、
「こないだ、初めてこの子が動いて。胎動を感じたんや。この子が生きてるて実感して、嬉しくて、
愛しくて」
「そう」

「慈しみの顔やな」
感心したように、坂口の言うとおりだ。
男である歩が、慈愛に満ちあふれた微笑をうかべている。不思議な、だが温かい光景だ。

「僕、こんな気持ち、初めてや」
「本気で、生む覚悟が出来たんやね。母は強し、よ」
「母か…」
歩は口の中でつぶやく。なんと幸せな響きをもった言葉だろう。

「はい。起きてええわよ」
促がされ、ゆっくりと診察台に座る。
「で、仕事はどうすんの? がんばって続ける?」
「いや。仕事はもうキツいさかい辞めよう思てんね。退職金やら失業保険やら、蓄えも少しはある
さかい、細々とはやっていけるはずや」
シャツを着て、ベルトを緩めに締めながら、歩はそう言う。

「そうね。それがええわ。…そのコト、あの冷血漢には?」
恒一郎の事だ。
「言うだけ言うてみる。きっと許してくれへんやろうけど、ひとりでも生むつもりや」
「そうなさい」
しっかりとした口調で言った歩に、
「それに、あなたはひとりとちゃうわよ。私も坂口先生もおってんのやし。頼りにしてや」
晶は明るくそう言うと、ポンと軽く肩を叩いた。




  2011.12.17(土)


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