会社に辞表を出したその足で、待ち合わせした公園へ行く。ベンチに座って待っていれば、
時間どおりに現れた恒一郎の第一声は、
「太ったな」
これだ。

「はい。5Kg増えました」
「ほな、まだ処理してへんのか?」
「はい」
歩はまっすぐ恒一郎の目を見て頷く。

「おまえのコトやさかい、グズグズと引き伸ばしてんのやろと思てたけど」
ハッと短く息を吐いて、恒一郎も歩の隣に座る。
「あの気の強い女医が堕胎に反対してんねやろ。俺がええ外科医を紹介するさかい」
「僕、生むコトに決めました」
お腹に手を当てて、ハッキリと宣言する。もう恒一郎に嫌われてもかまわない。この子の方が
大事だ。

そんな歩の顔を、恒一郎は冷静に見つめる。
「本気で、言うてんのか?」
「はい」
恒一郎に対する想いに負けまいと、歩は口をきつく結ぶ。

「…なんで、そんな気になったんや?」
恒一郎も、いつものおどおどとした歩とは違うと思ったのか、少し口調をやわらげて訊いてくる。
「この子が、動いたんです。生きて、ここにいる、て自覚したんです」
そんな恒一郎をまっすぐに見つめて、
「恒一郎さんには、絶対に迷惑かけへんさかい、お願いや、生ませてください!」
深々と頭を下げる。

「迷惑はかけんて、」
恒一郎は、しばらく黙っていたが、もう一度短く息を吐いて、
「どうすんのや、これから?」
あきれたように訊く。

「会社は今日、辞めて来ました。アパートも移ります」
「そうか」
そこまで聞いて、恒一郎は立ち上がる。内ポケットから細い紙巻を取り出し、ライターで火を
つける。

歩は一瞬、ムッとした顔をする。妊婦にタバコの煙が害なのを知ってて、なお自分の前で吸う
恒一郎に、嫌悪感を隠せない。
「…初めてやな」
「え?」
「俺に、そんな顔するの」
恒一郎は、その一瞬の表情を見逃さなかったようだ。

「おまえは、いつかて借りて来たネコみたいに、俺の前では大人しかった。嫌と言うたコトも、
拒絶したコトもない」
細く煙を吐いて、
「俺はいつかて、お人形を抱いているような気がしてた」
「…」
「初めてやな。嫌な顔したの」

言われてみれば、そのとおりだ。これまでの歩は、恒一郎に嫌われまいと体中で緊張して、
ぎこちない笑顔しか見せないでいた。
「そう、かも」

「まぁ、ええわ。おまえの決心は、ようわかった」
「ほな、許して、」
「うちに越して来(き)い。今度の日曜や。業者を頼んで、必要最小限のモンだけ持って
来(き)い」
「こ、恒一郎さん」

それだけ言うと、チラリと歩の顔を見て、さっさと行ってしまう。
恒一郎の本意がわからない歩は、その背中を見送るしかなかった。



言われたとおり、次の日曜に必要最小限の荷物だけ持って、恒一郎のマンションに越して行く。
ひとり暮らしには過分の、3LDKの豪奢なマンションは、もとは恒一郎の両親が住んでいたそうだ。
それが、外国にいる兄夫婦のところへ行ったため、今は恒一郎がひとりで住んでいる。

「ここを使(つこ)たらええ」
南向きの、眺望のいい部屋へ案内される。8畳くらいの広さで、壁ぎわにベッドがひとつ、机と
イスがひとつ、それにクローゼットがあるだけの、殺風景な部屋だ。
「あとの荷物は?」
「もともと家具つきのワンルームでしたし、荷物いうても余計ありまへん」
「そうか」
抑揚もなくそう言うと、恒一郎は戸を閉めて出て行く。

ひとり残された歩はどうしていいか分からず、とりあえず多くない荷物と、これだけは処分できず
持って来た観葉植物の鉢を置いて、恒一郎の後を追う。
恒一郎は、ベランダに続くリビングのソファに座って、新聞を広げている。

「あの、お茶でも淹れましょか?」
おずおず声をかければ、
「いや、いらん」
顔もあげずに答える。

「ほな、食事の用意でも」
「歩」
ようやく顔をあげる。
「俺はおまえを家政婦にと思てんのと違う」

「ほな、どうういうつもりで、僕に越して来いて、言うたんでっか?」
以前なら絶対に出来なかったこんな質問も、お腹の子が力を貸してくれるのか、ポンと出来る。
「おまえがそうなった原因の半分は、俺にあるさかいな。責任や」

「そ、」
”責任”という言葉が、歩の胸に刺さる。
「そんなつもりで、僕を…」
腰から下の力が抜ける。
甘い言葉を期待していたわけではない。つき合っていた3年もの間、恒一郎は常に暴君のように
君臨し、歩はその命令に従うだけの、意思のない人形でしかなかった。

そんな恒一郎に、今さら労わりの心や優しい言葉を期待するほど、歩はバカではない。
にもかかわらず、ショックを受けたのは、部屋に越して来いと言った時の、ほんの少し優しい目に、
胸が高鳴ったからだ。

なのに、恒一郎は”責任”だと、堂々と言う。
「…わかりました。恒一郎さんの生活を、侵さんかったら、ええんですね」
「せや。今から腹も目だってくるやろ。病院には俺が送り迎えする。買い物も、電話かネットで
済ませるよう」
「はい」
「あと、カードを渡しておくさかい、支払いは全部それで済ますように」

「え、お金やったら、少しは持って来てます」
「生活費は入れてもらわんで結構や。慰謝料がわりに払(はろ)たる」

恒一郎の言い草に、思わずムッとした目で見る。
「なんや、不満か?」
「いえ」
この恒一郎のマンションを追い出されたら、本当に身を寄せる所はない。
歩はよくよく考えて、頭を左右に振る。

そして、自分にあてがわれた部屋に戻り、ピシャリと戸を閉める。
戸を閉めた手は、震えている。ほほは紅潮し、胸がモヤモヤしている。あまりの恒一郎の言葉に、
怒りをおぼえているからだ。

ベッドに浅く腰かけ、気持ちを落ち着かせるために大きく深呼吸する。
何度か繰り返すうち、いくらか胸のモヤモヤは小さくなる。
そうして、考える。今まで一度も恒一郎の言動をひどいと思ったことはなかったのに、どうして
怒りをおぼえたのだろう、と。

そんな自分の変化に、歩は少し戸惑っていた。




  2011.12.17(土)


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