どうした神様の気まぐれか知らないが、男の自分が妊娠したのは、まぎれもない事実だ。
ふいの吐き気や、微熱、食欲がなくなることも、妊娠初期なら良くある事だと、晶は説明してくれる。
自覚症状のない今の時期に、気をつけるべき事はたくさんあり、そのためには協力してもらう事も
たくさんあるから、と、晶はなかば強引に”父親”を連れてくる約束をさせる。

晶には逆らえず、とにかく相手の男に連絡をとり、頼み込んでもう一度会ってもらう。
「あ、」
いつも待ち合わせに使っていた、ひと気のない公園に行けば、いつものベンチに既に来て座って
いる。
「恒一郎さん」
呼べば、読んでいた英字新聞から顔を上げる。

二流企業のボンクラ営業職である歩とは違い、この橘恒一郎(たちばなこういちろう)は外資系
企業に籍を置き、若くして管理職にあるエリートだ。

そして、3年つき合った歩に、つい先日、一方的に別れを告げた男でもある。

「すんません。来てもろて」
「ああ」
新聞を畳んで立ちあがる。外国仕立てのグレーのスーツは、長身で体格のいい恒一郎に、あつ
らえたようにピッタリ似合っている。
うすいメガネの奥の瞳は、歩の姿を認めても、少しも表情を変えないというのに、こんなにも歩の
胸をときめかせる。

一方的に別れを告げられたというのに、忘れるどころか、ますます想いは募っている。
「おまえとは、もうつける話もないはずや」
もの静かなバリトン。人に言わせれば冷淡ともとれる恒一郎の口調も、歩には魅力的だ。

「歩。なんの話や?」
自分の前に立って、いつまでも話そうとしない歩にじれたのか、恒一郎は少しキツイ口調で訊く。
「え、ええ。それが、こんな話、信じてもらえんと思うんでっけど」
促がされ、思い切って、
「僕、妊娠しましてん」

「堕(お)ろせ」
恒一郎は、顔色も変えずに静かに、だがキッパリと言う。
ウソも本当もなく、いきなり”堕ろせ”と言うあたり、理由も説明せず一方的に別れた恒一郎らしい
といえば恒一郎らしい。

「堕ろせ、て」
思わず、歩もあっけにとられてしまう。
「…いや、おまえは男やったな。男が妊娠するわけないさかい、それはウソか。俺とヨリを戻し
たいんやったら、もっとましなウソついたらどうや」
「ウソとちゃいます」

半分なみだ目になりながら、歩は今までの経緯を話す。
「で、その女医先生が、俺にも来いて言うてんのやな」
「はい」
「ふ…ん」
畳んだ新聞を脇にはさみ、ポケットから細い紙巻を出して火をつける。普段はあまり吸わない
のに、考えごとをする時にタバコを吸う癖は、相変わらずだ。

「わかった、行くだけ行こ。けど、ホンマにおまえ」
「恒一郎さんが疑うの、無理ないです。僕かて、まだ信じられ…」
ここまで言って、煙にむせる。いつもなら気にならないのに、今は呼吸をするのも苦しい。
「すんません、ケムリ、アカン。消して、お願いします」
「ああ」

頷いて、灰皿のあるところで消してくる。
これで、ようやく呼吸が楽になる。
「時間は、その女医先生に訊いて。決まったら俺に連絡してや」
それだけ言うと、恒一郎はさっさと行ってしまう。

歩はその後ろ姿をいつまでも見送っていた。



数日後、2人そろって”殿村ウイメンズクリニック”へ行く。
「さて」
白衣を着た晶は、並んでイスに座る歩と恒一郎に向きなおる。
「あなた、橘さんいうたかしら。歩くんが妊娠したコト、聞きました?」
「はい。いや、それはホンマのコトですか?」
恒一郎は、あくまで冷静な声だ。

「橘さんが信じられん気持ち、わかります。けど、まぎれもない事実です」
晶はいくぶん興奮気味に、恒一郎の顔をのぞきこむ。
「きっと、世界が驚くような、学界もひっくり返るようなコトやわ」
「はあ」
「もちろん、歩くんを学界やマスコミにさらすなんてコト、絶対にしません。無事に出産を迎えるまで、
全力でサポートします。せやから、」
「先生のお考えは、わかりました」
勢いこんで言う晶の言葉を、恒一郎は冷たい声で切る。
「けど、どうして男の歩が妊娠したのか、納得のいくように説明してくれまへんか?」

「納得のいく説明なんて、誰も出来しまへんわ。それに大事なのは”どうしてそうなったか”やなく、
”これからどうするか”です。そのために、今夜2人そろって来てもろたんです」
あまりにも恒一郎の口調が他人事のようなので、晶がイライラしているのが分かる。
「これから、て」
もちろん、晶がイライラしているくらいで、動揺するような恒一郎ではない。

「考えるまでもない。さっさと堕ろしてしもたら、ええやないですか」
「堕ろす…?」
ピクッと、晶のこめかみが動く。
恒一郎と晶では、相性最悪なのが分かっている歩は、ハラハラしながら成り行きを見守っている。

「あなた、堕ろすて、言うたの」
「そうですが」
恒一郎は、軽くメガネをかけ直す。
「今後の最善策を、てお考えやったら、堕胎が一番やないでっか? だいいち、歩は男や。それだけ
でも堕ろす理由になりまへんか?」

「なに言うてんの!」
「あ、晶ちゃん」
とうとう恒一郎に対して爆発した晶をとめようと、歩は腰を浮かしかける。だが、反対にギッと睨まれ
て、また座り込んでしまう。
もう、こうなったら手がつけられない。

「あなた、橘さん、簡単に堕ろせて言うけど、堕胎は殺人行為と同じやわ! 全ての可能性を否定
するコトになるんよ!」
しかし、激高する晶に、恒一郎は平気な顔で、
「俺には、なぜ先生がそない興奮してはるんか、わかりません。たかだか10cmにも満たない
モノが、命と言えるんでっか?」

「なっ!!」
晶は反論もせずに、ただ体を小きざみに震わせている。怒りのあまり、言葉が出ないのだろう。
「歩くん!」
「はいっ」
そして、急に歩の方に顔を向けると、
「あなたの惚れる男て、どうしてこう揃いも揃ってイヤな奴ばかりやの!」
「そ、そんな…」
強く否定できない。

「いや。長いつき合いやさかい、ようわかる。どいつもこいつも、顔やスタイルはバツグンで、頭も
良くて、そのくせ性格が曲がってんね!」
「そ、そうかも」
「けど、今度のは最悪! だいたい命をなんやと思てるの! 胎児はオデキと違て、出来たさかい
取ってしまう、なんてコト、出来(でけ)へんのよ!」
拳を握って立ち上がる。
「それを、ハナから堕ろせなんて、ひどい!」

「…フゥ」
目の前でこれだけ盛大にののしられ罵倒されている、というのに、恒一郎は顔色ひとつ変えない。
「どうやら話は平行線のままのようやな」
そう言って立ち上がると、自分を睨みつけている晶に軽く一礼して、診察室から出て行く。

「ちょお、」
「僕が」
恒一郎を追おうとする晶を手で制して、歩も後からついて出る。
「恒一郎さん」
呼びとめれば、玄関前で立ち止まる。

「気ィ悪くしたら、謝ります。すんまへん。けど、晶ちゃんも悪気で言うたわけと違うし、それに、」
「歩」
冷たい声音で、歩の言葉をさえぎる。
「はい?」
「俺の考えは、さっき言うたとおりや」
「はい」

「後はどうしようが、おまえの勝手や。…金が必要なら用意する。カタがついたら、連絡してや」
それだけ言って、扉を開けて行ってしまう。
歩はただ、重たげに揺れる扉を見つめることしか出来なかった。




  2011.12.10(土)


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