いつも堂々としていて、確固たる信念を持っている晶には、恒一郎に相談してみると言ったものの、
本当に相談しに行けるわけがない。
妊娠の責任云々は別にして、これ以上自分の事で恒一郎に迷惑をかけたくないからだ。
もう2度と好かれないと分かっていても、絶対に嫌われたくない。

その辺り、妙に期待しているようで、自分でも未練がましいと思う。
だから、今後の事を恒一郎に相談するのはもちろん、子供を生む事自体、もってのほかだと思う。

医者である晶は、歩の体を心配して堕胎を反対しているが、歩にとっては、今でもお腹の子より
恒一郎の方が大事だ。
歩はひとり、自分のベッドに寝転がって考える。

…とにかく、お腹の子さえなんとかしたらええんや。そのためには。
枕もとの電灯をつけて、母子手帳を探してくる。
「えーっと」
手帳には、妊娠中の注意事項がこと細かく書いてある。

「重いモノは持たない。立ちっぱなし、座りっぱなしもダメ。刺激物を食べてもダメ。長時間、乗り物に
乗っててもダメ。…うわ、まだまだあるで」
歩はひとつひとつ確認しながら、恒一郎のためにお腹の子を消す方法を考える。

そして翌日から、さっそく実行する。
とにかく、歩きづくめや気疲れが効くようなので、積極的に営業にまわる。梅雨に入り、湿度の高い
なかを、毎日靴の底がすり減るくらい、顧客を訪問する。

その結果、皮肉な事に歩の営業成績は伸び始め、また気持ちも張っているため健康状態も良く
なってくる。
晶は、やっと生む覚悟を決めたと思い込んで喜んでくれるが、歩はジレンマを感じている。

…どないしよ。
深夜の公園のベンチに座り、歩はため息をつく。
自分では流産しようと努力しているのに、いっこうにその気配はない。
しかし、このまま無事に子供を生んでしまえば、恒一郎の為にならない。

もう一度、吐息をついたところで、雨が降り始める。あいにく、カサは持っていない。だが、歩は
そのまま降る雨に打たれる。
またたく間に、雨は歩の服を濡らし、髪を濡らす。雨のしずくが顔に伝って、視界がぼやける。

ふと視線を上げた先に、水銀灯の光がある。うすもやの世界で、光は呼吸するように、明るく暗く
光っている。
「キレイやな」
立って、引き寄せられるように、光のある方に歩く。

「フフ…」
なんとはなしに、笑いがこみ上げてくる。
こんな風に雨に打たれれば、体が冷えてお腹の子に良くない。それが分かっていて、あえて
そうしている自分と、恒一郎に嫌われまいと、滑稽な努力を続ける自分と、それでも恒一郎に
好かれる事のない自分とが、悲しいほど可笑しい。

だいたい、男の自分が妊娠している事が、いちばん可笑しい。

歩は、始めはクスクスと、しだいに大きな声で、雨の中笑い続ける。
「そうや! おまえなんか、なんで僕んトコに来たんや!」
下腹を見て、叫ぶ。
「おまえなんか、誰も望んでへん! おまえなんか、消えてしまえばええんや!」

叫んだとたん、ギリッと差し込むような痛みがはしる。
「痛っ」
ギリギリと痛みは続き、歩はたまらずその場にうずくまる。

やめて…。
お腹をおさえてうずくまった歩に、どこからともなく声が聞こえてくる。
やめて、消さんといて…。
小さくかすかな声は、切々と訴えてくる。

「誰や? 誰なんや?」
ハッと、歩は気づく。ズクズクと、自分の下腹が痛んでいる。
「おまえ…」
うずくまっていたのを、お腹が楽なように正座する。
「おまえなんか?」
そして、そろそろせり出してきたお腹をさすりながら、歩はおそるおそる訊く。

訊けば、ズクンと下腹が痛む。わずか10cmにも満たない胎児が、存在を主張をしている。
「ホンマに、そこにおるんやな」
ズクン。答えるように、痛みがはしる。
「おまえ」
歩は絶句する。

今まで、いくら晶にお腹に宿った命の話をされても、超音波で画像を見せられてさえも、全然ピンと
こなかった。
頭では分かっていても、胎児なんて手や足と同じ、自分の体のどこかかから生えているぐらいの
意識しか持てなかった。

それが、初めて自分のお腹に宿る、まったく別個の意識を認める。
「…あ」
ふいに、涙があふれる。
こんな小さな命でも、懸命に生きようとしている。可能性に挑戦している。

それを、自分は全部否定しようとしていた。

「かんにん。かんにんな、おまえ」
小さな、しかし懸命な命の火を、歩は自分の身勝手さから消そうとしていた。
「おまえにかて、生きる権利はあるのに、親である僕は消すコトばかり考えた。ホンマ、かんにん」
はらりと涙を落としながら、歩は自分のお腹を優しく撫でさする。

と、トン、内側からけられる。
「あっ」
動いたのだ。お腹の子の胎動を、初めて感じたのだ。

「おまえ」
歩は、はらはら涙を落としながら、自分のお腹に宿る小さな命に、初めて愛情を感じていた。




  2011.12.14(水)


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