「ハァ」
初夏から梅雨へと季節がかわる蒸し暑い昼下がり、歩はひとり公園のベンチに腰かけて、吐息を
つく。
今日もまた、部長にたるんでいると嫌味を言われた。もともと熱心な営業マンではないが、特に
ここ1ヶ月は体調が思わしくなくて、重い営業カバンを下げて外回りをするのが辛いのだ。

幾分つわりは落ち着いてきたが、貧血気味なのか、少し歩いただけで目まいがする。匂いに敏感に
なって、人ゴミに酔うようになる。
それに、引っ込み思案な性質(たち)だったのが、ますます情緒不安定になり、イライラしたり、愉快
になったり、ひどく落ち込んだり。とにかく、感情がくるくると変わる。
それもこれも、全てお腹の子が原因である。

…ホンマに、いるんやろか。
そっと、ズボンの上から下腹のあたりを撫でさする。
何度撫でても、何回鏡で見ても、そこはへちゃっと平らなままで、とても何かがいるとは思えない。

では、いないかと言うと、そうではない。
感情の抑制が効きにくくなったり、さしこむような痛みがあったり、とにかくTPOを考えずに存在を
主張してくる。

…僕、どないなったんやろ。
精神的には気弱で凛としたところなどひとつもない、どちらかと言えば女性的な部分を多く持って
いる。肉体的には、やや中性的な顔立ちで、上背のわりには線の細いところがあるが、正常な
男性だ。
そんな、男である自分が、どうして妊娠してしまったのか? もう何度目か分からない自問をする。

正解の出ない自問は、決まってひとつの仮説にたどりつく。
つまり、歩の恒一郎を愛しく想う気持ちが、妊娠という奇跡を呼んだのだろう、と。
つき合っていた頃、真剣に恒一郎の子供が欲しいと思ったことはない。が、末永く一緒にいたいと、
いつも願っていた。
そんな想いが、こういう突飛な形で現れたのだろう、と、歩の頭ではそのくらいしか考えつかない。

「ハァ」
しかし、恒一郎は違う。歩が自分の子を宿していると分かっても、堕ろせのひと言ですませてしまう
男だ。
あきらかに、この妊娠は、恒一郎の意に染まぬことだと、分かりきっている。
では、どうすればいいのか。
歩は悩む。

歩自身は、子供は嫌いではない。しかし晶のように、胎児にも生きる権利や未知の可能性が
あると、確固たる信念を持っているわけでもない。
それに、今はこんなわけのわからないお腹の子より、恒一郎に迷惑をかけない事の方が大事だ。

もう一度、晶ちゃんに相談してみよ。
歩はベンチから立ち上がると、重いカバンを下げて歩いて行った。



1週間に1度、外来の終わった時間に晶の病院に通い始めて、もう4度目だ。
その間、歩はぐずぐずと思い悩み、相談の機会を逃していた事になる。
「体調はどない?」
診察では必ず脈をとり、体重、血圧が計られる。その結果をカルテに書きこみながら、晶は訊く。

「うん。吐き気はおさまったけど」
「そう。ほな、腕出して」
定期検査のため、ごく微量の血液が採られる。
「はい。ほな、もうひとつ」
今度は別の注射だ。
いずれも、歩は目を固くつぶって、反対の方を向いている。

「はい、終わったわ。ここ押さえてて」
言われたとおり、アルコール綿を親指の腹で押さえつける。
今の注射は、女性ホルモン剤だ。妊娠を継続し、胎児を育てていくためには、いくらかの女性
ホルモンが必要になる。
正常な男性でも、ごく微量の女性ホルモンは生成されているが、妊娠を維持できるほどではない。
そこで、女性ホルモン剤を追加投与しているのだ。
さりとて、歩は完全に女性化を願っているわけではないので、出産するまでの短い期間だけ、
それも妊娠を維持するギリギリの量をと、晶が診断してくれた。

「前回の血検(血液検査)では、悪い結果は出てへんわよ。それより、体の変化は、どう?」
「なんや、おちちが張ってきたような感じがする」
「そう。診てもええ?」
頷いて、シャツのボタンをはずす。アンダーウエアを持ちあげれば、白い胸が出てくる。つるり
とした胸は、見た目には変化は見られない。

「ゆっくり、横になって」
診察台に横になれば、すぐさま枕もとの機械の電源をいれる。この機械は超音波で胎児の
状態を見るための物らしい。ゲル状の液体を下腹部に塗り、機械につながる平らな器具、
プローブをあてる。

「なぁ、晶ちゃん」
真剣な表情で画面を見つめる晶を、歩は小さな声で呼ぶ。
「なに?」
晶は画面を見つめたままだ。
「僕、…怖いんや」

「え?」
真剣な声に、思わず顔を見る。
「怖い、て?」
「僕、どうなってまうんやろ?」
妊娠をして、女性ホルモンを投与され始めて、体が変化し始めている。体重が増えているわけ
ではないのに、胸や腰のあたりに脂肪の層が薄くつき始めているし、ヒゲも体毛も、薄くなって
きている。
いまは、そう目立たないお腹も、これから胎児の成長にともなって、どんどん大きく目だってくる
だろう。

そんな自分が想像できなくて、不安を隠しきれない。
「歩くんが怖いて思うの、当たり前やわ」
晶はイスごと歩に近づいて、額に手を置く。
「普通の妊婦さんかて、経産婦さんかて、妊娠が不安なんは一緒や。ましてや歩くんは男なんや
さかい、怖いの当たり前や」
「うん」

温かい晶の手から、温かい気持ちが伝わってくる。
「誰かて、そうや。けど、私が全力でサポートする。それは安心して、な」
「おおきに」
晶の気持ちが嬉しくて微笑もうとするが、上手くいかない。

「あなたが弱気になってんのは、あの冷血漢のせい?」
「恒一郎さんは関係ない。だいいち、もう別れた人や」
「そうやったんか…」
少し間をおいて、
「けど、まだ好きなんやろ? せやから生むの、迷てんのやろ?」

「違うて」
自分でも驚くほど強い口調になったのは、図星をさされたからだ。
「ま、それはええけど、」
再び、画面に視線を戻す。
「私が堕胎に反対なんは、それが殺人行為やと思てるからだけとちゃうのよ。女性の場合、
胎児は子宮に守られてる。けど歩くんの場合は」
歩にも画面が見えるように、機械を動かして、
「胎児は膜のようなモノに包まれてる。そこに胎盤があって、成長しているようやけど、詳しくは
わからへんのよ。せやさかい、堕胎が歩くんの体にどんな影響を及ぼすか、予想もつかへんわ」

「ほな、晶ちゃんは、あくまで生め、言うんか?」
「そうや」
晶は頷くと、機械を片づけ、歩の下腹部に残ったゲルを拭きとってくれる。
「ほんでな、歩くんがお産する時、産道がないさかい帝王切開になるんやけど、どうしても私ひとり
では手術出来(でけ)へんのよ。で、友人に手伝てもらおて思てんのやけど」
「えっ」
驚く歩に、
「大丈夫、信用出来(でけ)る人やし。それに外科のお医者さんやさかい、切ったはったはお手の
モンやわ。はい、起きてええわよ」
ゆっくりと診察台に座る。

「歩くんの健康状態もええようやし、胎児もちゃんと成長してる。まあ順調ね」
「へぇ」
ほかの母親なら嬉しいだろうが、いまの歩には不安の方が大きくて、あまり実感がわかない。
晶はすっかり生むと決めているが、肝心の歩は迷っている。

「まだ不安て顔、してるなぁ。せや、ミルク温っためて来たるわ」
晶は奥へ引っ込むと、すぐに温かいミルクと、自分にはコーヒーを持って来る。
「僕もコーヒーがええ」
「アカン。あなたは妊婦なんやさかい、刺激物は極力摂ったらアカン。ミルクはカルシウムや良質な
タンパク質が豊富やさかい、積極的に飲むんやで」
「はあ」
怖い顔で晶に言われたら、逆らえない。歩は温かいミルクをこくりと飲む。

「こら、冷ましながら飲みなさい。熱いもの、冷たいもの、それに早食いもアカン」
「アカンものだらけやな」
「そう。最近あなたの凝ってたエスニックや韓国料理も、しばらくは控えな」
「えー」

そう言えば、母子手帳にもそういった類の注意事項が、校則のようにこと細かく書かれていた。
読んでる途中で、目まいがしてやめたほどだ。

「それと、歩くんなぁ、今の仕事、楽しい?」
「なんで?」
「いや、今のうちはええけど、これからお腹も目だってくるし。だいいち営業職やろ。胎児には
良うないわ」
「辞めた方がええんか?」
ミルクを冷ましながら、上目づかいに訊く。

「辞めれんのやったら、診断書書くさかい、事務職とか、休職するとか」
「う…ん」
今の仕事が面白いわけではないし、職場に未練があるわけでもない。ただ、生活のため、働いて
いるだけだ。
「僕、辞めたら生活出来(でけ)へんし。休職なんてしたら、クビになる」
「そうなん」
フーッと、大きく晶は息を吐く。

「歩くんのご両親は、早うに亡くなってるし、お姉さんは遠くで家庭持ってはるしな。急々に身を
寄せるトコもないんやな」
「せや」
「アパートに一人暮らしやろ。これから増々たいへんになっていくし。…こないだの冷血漢に、
話でけへんやろか?」

「こ、恒一郎さんに?」
飲んでいたミルクがこぼれそうになる。
「それはアカン。別れた人やし、これ以上迷惑かけれん」
「なに言うてんの」
晶は強気でまくしたてる。

「だいたい父親はあの人なんやろ! ほな歩くんが遠慮するコトないやない。子供は夫婦2人に
授かったんや。いろいろ助け合(お)うて、当たり前とちゃうの!」
「そうやけど」
「なら、もいっぺん、話してみたら?」
ん? と、腰に手をあてて、顔をのぞきこんでくる。
「ひとりで行けんのやったら、私も一緒に行ったるわよ」

「いや、とにかく会(お)うてみる」
恒一郎と晶の相性が最悪なのは、この間の診察でよくわかった。再び顔を合わせれば、もっと
ひどい状況になりかねない。
歩は急いで答える。

「そ。まぁ、ドコも行くトコなかったら、私が歩くんの面倒みたるさかい、な」
晶はにっこり笑ってそう言った。




  2011.12.10(土)


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