その日から、恒一郎はガラリと変わる。
夜は早く帰って来るし、遅くなる時は必ず連絡をいれるようになる。
かなりお腹の大きくなった歩のために、転んでは危ないからとマンションの段差や角には
クッションをつけ、トイレやフロにも手すりをつける。

「ただいま」
「あ、おかえりなさい」
季節はうつって、今は冬。玄関の戸を開ければ、外から冷たい空気が入ってくる。
「お疲れさん。寒かったやろ」
「中は暖ったかいな」

歩を気遣って、ゆっくりと並んでリビングに入る。
「ああ、ええ匂い」
「すぐ食事にするさかい」
「おおきに。それより、ほら」
と、カバンの中から紙包みを出す。

「なに?」
「今日な、オモチャ屋の前通ったら、目について」
嬉しそうに包みを開ける。中身は幼児用のガラガラだ。

「買(こ)うて、来たん?」
「気ぃの、早かったかなぁ」
そう言って、照れくさそうに笑う。

会社では課長職に就き、何人もの部下を抱えるバリバリのキャリアなのに、オモチャ屋で
真剣にガラガラを選ぶ姿なんて、想像するだにおかしい。
「おおきに。たまちゃんも、オモチャが増えたて、喜んでるはずや」
「たまちゃん、気にいってくれたか?」
歩のお腹に手をあてて、やさしく語りかける。歩はクスクス笑いながら、ガラガラを受け取る。

恒一郎は、こうして毎日のようにオモチャだの出産関係の本だの、歩の好きな花だのを買って
きてくれる。
もちろん、タバコはキッパリやめている。

「ほな、いただきます」
歩の料理も、美味い美味いと食べてくれる。妊娠中の歩に合わせて塩分控えめのうす味に
作っているのだが、文句も言わない。残さず食べる。

「ごちそうさま。ここは俺が片付けるさかい、おフロ入っといで」
「うん」
後片付けも洗濯も、立ちっぱなしは体に悪いからと、恒一郎がしてくれる。

…ウソみたいや、こんな、穏やかな気持ち。
歩はゆっくりと湯ぶねにつかりながら、しみじみ考える。恒一郎がこんなにも自分に優しくして
くれるなんて、未だに信じられない。

「歩、湯加減はどうや?」
今も、歩の長湯を心配して、脱衣場から声をかける。
「おおきに。ちょうどええ」
「着替え置いとくさかい。温ったまったら出といで」
「うん」

…僕は、本当に幸せ者や。
自然と顔がほころぶ。立ち上がり、洗い場から出れば、清潔なタオルと、キチンと畳んだ着替えが
置いてある。
歩は体の水気をとりながら、脱衣場の鏡に映る自分の姿を見る。

もう32週を過ぎているから、お腹だけこんもりと前にせり出ている。胎児を守るため投与されて
いる女性ホルモンの作用で、もともと中性的だった顔立ちはより女性的になり、肩や腰のあたりは
ふっくらと丸みを帯びている。
ほとんど外にも出ないので、肌も白く透き通るようだ。ヒゲもほとんど生えない。
髪も切ってないので、サラサラと肩につくほど伸びている。
薄いばかりだった胸も、ほんの少しふくらんでいる。

お腹のあたりがゆったりとした妊婦服を着れば、今は歩が男性だと気づく人はいないだろう。
だから、堂々と晶の病院にも通っている。

初めは、そんな自分の体の変化が怖くて、まともに鏡を見れなかった。だが、今はお腹の子を
守って、慈しみ育てるこの体が、自分でも誇らしい。
「たまちゃん、スクスク育ってな」
声をかけ、くるりとお腹をふいて、脱衣場から出る。

「あがったか?」
リビングに行くと、すぐさま恒一郎から声がかかる。
「こっちおいで」
「うん」
ソファの隣に座る。意外に手先が器用な恒一郎は、胎教にいいと言われるCDをかけながら、
小さな手袋を編んでいる。
「それ、いくつめや」
「いくつあってもええやん。足、こっち寄こして」
編みカギを膝に置き、ヒーターの前で温めていた靴下を、歩に履かせてくれる。

「おおきに。温ったかい」
「あ、ミルク温っためてあるで」
妊娠中にはカルシウムやタンパク質を積極的に摂る必要がある。恒一郎は立って行って、
温めたミルクを持って来る。

「おおきに」
ゆっくりと冷ましながら、ミルクを飲んでいると、
「なぁ、なんにしよか?」
しばらくして、恒一郎がポツリと訊く。

「え?」
手には編みカギ、目は編み物の本を見ながらだったので、そら耳かと思ったが、そうではない。
「名前や。生まれたら”たまちゃん”と違うやろ。歩は決めてんのか?」
「いや。まだやけど」
「そうか。俺ずっと考えてんけど、なかなかええ名前、うかばへんで」

言われてみれば、そろそろ名前を決めてもいい頃だ。とびっきり愛情のこもった、いい名前を
プレゼントしてやりたい。
「確か、恒一郎さんの買(こ)うて来た本に、姓名判断の本があったな」
「よっしゃ」
恒一郎は立ち上がり、本を抱えて戻ってくると、直接、床に胡坐をかく。

「紙とエンピツ、と。せやな、苗字が橘やさかい、」
「えっ。姫里と、ちゃうの?」
生まれた子供は、歩が認知した子として”姫里”の籍に入れるものとばかり思っていたので、
驚いて、恒一郎の顔をまじまじと見る。

「当たり前やないか。俺の子や、橘姓に決まってる」
「せやけど…」
「ホンマはな、」
エンピツを置いて、ソファに腰かける歩に向き直る。歩の膝を、ゆったりと抱きしめる。
「歩も、俺の籍に入れたいんや。残念やけど、今の日本じゃ夫婦として籍に入ることは出来
(でけ)へん。せやけど、養子縁組やったら、俺の籍に入れられる」

恒一郎は、歩の顔を見上げて、
「家族に、なろ。俺と歩と、たまちゃんと。3人で、家族になろ」

「恒一郎さん…」
あとは、言葉が出ない。
言葉のかわりに、熱い想いが熱い涙となって、あふれてくる。
「歩」
恒一郎は歩の隣に腰かけると、肩に手をまわして、優しく抱き寄せる。

「イヤか? イヤやから、泣いてんのか?」
「アホ」
指の腹で自分の涙をぬぐう恒一郎の手を取って、歩は指先に口づける。
「僕は、今のままで充分や。充分、幸せなんや。これ以上は、バチがあたる」

「バチなんか、あたるか。歩は、もっともっと幸せにならなアカン。俺が、もっともっと、幸せにしたる」
静かな、だが温かい声でそう言って、歩のほほに口づけ、額に口づけ、まぶたに口づけ、最後に
しっとり唇に口づける。
何度も唇を重ねて、一瞬だけ強く吸って、
「歩、返事は?」

「…はい」
ポーッとした頭で答える。
恒一郎は、本当に嬉しそうに笑うと、もう一度唇を重ねる。
そして、おずおずと舌先で歩の歯牙を割り、歩の舌を探って、絡めて、吸って、甘噛みして。

「ん…」
肩に置いた手を、そろそろと動かす。
肩を撫で、腕を撫で、胸を…。
「っ!」
恒一郎の手が、自分の胸のふくらみを捉えようとしたその瞬間、反射的に身を起こす。

「…イヤ、か?」
「イヤやない、けど」
そう、今こんなにも恒一郎が欲しい。
しかし、今の自分の体は、恒一郎が知っている以前の体とは、全然違う。
そのことが、歩を臆病にする。

「僕の体、変わってしもて。きっと恒一郎さん、ガッカリする」
「歩」
額を額にコツンと当てて、
「どんな体になっても、歩は歩や。俺の惚れた、大事な、大好きな、大切な、愛しい…」
優しい呪文をつぶやきながら、ほほを撫で、首筋を撫でて、衿の合わせ目から手を入れる。
「うっ」
直接、恒一郎の手が触れる。手のひらで、ふくらみをまさぐられる。
「ああ、やわっこい」
「恥ずかしい」
消え入るように小さな声で言ったのに、恒一郎にはしっかりと聞こえていたようだ。

「恥ずかしがらんでもええ。歩は、魅力的や。…このまま、最後まで、ええ?」
「明かり、消して…」
これ以上ない幸福感のなか、歩はやっと、それだけ言った。




  2011.12.24(土)


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