隣で眠る岡崎を起こさないよう、皇は静かにベッドをおりる。そのままの格好でバスルームに入り、熱いシャワーを頭からかぶると、盛大に泡をたてて強く体中をこする。
岡崎は、皇が会社勤めをしていた頃の恋人だ。2年くらいつき合っただろうか。リストラで会社をクビになると同時に、皇の方から連絡を断った。
その岡崎とこんな形で再会するとは、思ってもみなかった。

…なにしてんのやろな、俺は。
自嘲気味に笑って、シャワーの栓を締める。備えつけのバスタオルで体の水気をとっていると、戸口に岡崎が立っているのに気づく。
「起こしたか?」
「いや」
「さよか」
素っ気なく答えて、何も着ないまま岡崎の脇を抜けて部屋に戻る。冷蔵庫から水のペットボトルを取って、栓を開ける。

ひと息に半分近く飲んで、皇は床に脱ぎ散らかした服を拾って着始める。
「帰るんか?」
そんな皇に、岡崎はバスルームの戸口に立ったまま訊く。
「ああ」
低く答える。

「あんたも、奥さんと子どものトコに帰ったらどうや」
「女房は今、娘を連れて実家に戻ってる」
その言葉に、シャツを着る手がとまる。
「…二人目が、出来たんか?」
「まあ、そうや。里帰り出産てヤツやな」
アッサリ認める。

岡崎の妻が一人目の子どもを宿した時期と、自分のリストラの時期とが重なって、ここが潮時だと連絡を断ったのを明確に思い出す。そして、その時胸に抱いたにがい感情も。
「さっき一緒におった男が、おまえの新しい恋人か?」
「あんたには、関係ない」
シャツを着て、ボタンをとめる。残りを飲もうとペットボトルに手を伸ばすが、先に岡崎が取りあげる。

「ホンマか? おまえは、ああいう男が好みやないか」
「返してんか」
それには答えず、岡崎の持つペットボトルを取ろうとする。が、岡崎は手首を掴んで、皇を抱きよせる。
「やめてや」
「なあ、俺たちまた、つき合わへんか?」
弱くもがいて自分の腕から逃れようとする皇を、岡崎は強く抱きしめる。

「俺はおまえのコト、忘れられへんかった。今でも、おまえが好きや」
”好き”と言われて、皇は抵抗をやめる。ひとつため息をついて、岡崎の首をゆったり抱きしめる。
「俺かて、嫌いで離れたわけとちゃう。こうして抱きしめられると、嬉しい」
「ほんなら、」
「けど、やっぱりあんたとはつき合えん。あんたは嫌いやないけど、」
腕をほどき、体を離す。岡崎の目を見つめて、ゆっくり、
「執着する相手でもなかったんや」

「ほな、今夜はなんで、俺に付いてきたんや?」
「ちゃんと別れるためや。俺とあんたは、とっくに終わってる。それが、言いたかったからや」
「三城」
「今まで、楽しかった。おおきに」
困惑の表情を浮かべる岡崎に小さく笑うと、皇はジャケットを羽織る。

「ほな、元気で」
「三城」
自分を追う岡崎の鼻先でドアを閉める。ドアに手をつき、顔を伏せる。
「…さいなら」
つぶやいて目頭を指先でぬぐうと、皇は顔を上げて、背筋を伸ばして歩き始めた。



自分から切り出した別れのはずなのに、なんとも後味が悪い。岡崎は自分を大事にしてくれたし、体の相性も悪くなかった。いい思い出もたくさんある。
だが、いくら好きでも岡崎には妻がいて、子どももいる。熱い逢瀬を幾つ重ねても、結局は妻子の元に帰っていく岡崎との恋愛は、にがい感情もまた皇に芽生えさせた。

体だけと割り切れるほどドライでもないが、妻子から奪おうと思うほどの執着もない。そんな中途半端な関係に疲れて、一方的に逃げたようなものだ。
だから次に恋をすることがあれば、絶対に妻子持ちはやめようと思っていた。にもかかわらず、遙には初めて会った瞬間から強く惹かれていた。
初めての子を宿した春奈と夫婦と思い込んでいた頃も、気持ちが引き寄せられるのに抗えなかった。

岡崎の時と同じ轍を踏んで、自分から厳しい恋をしているのが分かっているのに、自分でどうしようもない。
…ホンマに。アホやな、俺は。

そう考えながら”ひなた弁当”に帰り着いたのは夜半過ぎだ。さすがに朝の早い遙は寝ているだろうと、なるべく静かに2階へ上がる。
しかし、まだ居間には明かりが点いていて、テレビもつけっ放しだ。見れば、遙は低いソファに体をもたれ掛けるようにして眠っている。出かけた時の格好のまま、着替えてもいない。それに遙の座っている辺りにはビールの空き缶が転がり、乾き物を食べたあとも散乱している。めったに飲まない遙だが、今夜は飲んで、しかも酔払って寝てしまったようだ。

皇は小さくため息をつくと、テレビを消して空き缶やゴミを片づける。あらかた片づけて、手を洗っていると、
「王子。帰ってたんか」
ぼんやりとした寝起きの声がする。振り向けば、遙がまぶしそうに目を細めている。

「ああ。大将、水は?」
「せやな」
頷いた遙に、コップに水をくんで持っていく。
「おおきに」
ひと息に飲んで、遙は酒臭い息をはく。
「メシは?」

「食うてきた」
「あの男と一緒にか?」
「ああ」
遙の言葉に、岡崎と過ごした数時間の事を思い出す。どうにもバツが悪くて、空になったコップを受け取って立ち上がろうとする。

だが、遙は皇の手首を掴む。
「訊きたいコトがある」
目が据わっている。
「飲みすぎや。水、もう一杯、飲んどき」
「誤魔化さんと、ちゃんと答えてや」
皇の手首を離さない。声も真剣だ。

「からみ酒か。性質悪いで」
「あの男、王子とどういう関係や?」
やっぱり、訊かれてしまう。
「こんな時間まで、あの男と一緒におったんやろ? なにしてたんや?」

遙は岡崎と会った時から様子のおかしい皇を純粋に心配して、そう訊いているのだろう。
「なんでそんなコト、訊くねん? あんたは俺の保護者か」
「せやかて、気になるやろ。こんな時間まで帰って来おへんで。そんな哀しい顔して」
言われて初めて、自分が岡崎との別れの余韻を引きずったまま帰ってきた事に気づく。
「どうかて、ええやろ。そんなコト」
「ええわけない。王子が心配なんや」

「心配、か」
遙の言葉が胸を刺す。
ヘテロセクシャルの遙にとって、いくら想いを募らせても自分は恋愛の対象にはならない。いくら望んでも、遙に心には入り込めない。そんな事、最初から分かっていた。しかし今は、悔しくて哀しくて、皇の声はトゲを持つ。

「ほな正直に言うけど、あの男は…岡崎は俺の恋人やった男や」
「恋人やった、て」
「とうに終わった関係やったけど、さっき、キッチリ別れてきた」
やはり、遙の目には困惑の色が浮かぶ。皇の手首を掴む手の力も抜ける。

皇は遙の手からゆっくり手を取り戻して、口元を歪める。
「そうや。俺は、男が好きなんや」
言って、目を閉じる。半ば自棄になって打ち明けてしまったが、それを聞いた遙がどんな表情をしているのか、怖くて顔が見られない。

だが、遙は何も言わない。皇の近くに座ったまま、離れる様子もない。
「罵倒したらええ。この変態て、罵ったらええ。大将に嫌われたかて、しゃあない」
「アホ」
低くつぶやいて、遙は皇の頭を抱きよせる。
遙の胸から皇の耳に、直接心臓の鼓動が響く。

「そんな哀しいコト、言いな。真剣に、好きやった相手なんやろ? つらかったんやな」
静かに遙は言う。皇は首を振って、遙の胸を押しやる。
「優しく、せんといて。お願いや」
遙は皇の弱い抵抗を無視して、さらに強く抱きしめる。
「俺は、王子を慰めたいんや。アカンか?」

「…アカン」
つぶやいて、しかし、おずおずと遙の背中に腕をまわす。
「俺はアホやさかい、カン違いしてまう。せやから、」
「王子」
呼ばれて顔を上げる。間近に遙の顔がある。皇の好きな、人懐っこい笑顔を浮かべて、優しい目で見つめている。

遙の目から、目が離せない。
「ん…」
引き寄せられるように、唇に唇を重ねる。
一瞬、温かみを感じて、もう一度。今度は、じっくり。

何度も重ねて、ついばんで。唇を解放すれば、遙は熱いため息をつく。
「キス、してしもたな」
「ああ」
遙の唇は、濡れて紅く光っている。

「キス以上のコト、しても、ええ?」
「男同士て、どうすんのや?」
遙の目に、小さく劣情の炎が灯っている。
「黙って。俺に全部、ゆだねて」
つぶやいて、もう一度キス。口を開けて、舌で歯牙を割って、遙の舌を探る。
遙の舌には、ほのかにアルコールが残っている。

酔いに任せた気まぐれでもいい。同情でも慰めでも好奇心でも、なんでもいい。ただ今は、恋焦がれた遙を、気が済むまで味わいたい。
遙の唇を夢中で吸いながら、皇はもう、とまらなくなっていた。




  2012.09.22(土)


    
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