話があったその翌週には、皇はアパートを引き払って”ひなた弁当”に越して来る。あらかじめ冷蔵庫などの白物家電は処分しておいたし、鍋や食器も必要最小限しか持っていない。服もそんなに枚数はない。荷物を運ぶのを手伝うと言っていた遙があきれるほど、少ない荷物での引越しだ。

”ひなた弁当”に暮らすようになってから、皇の勤務形態は変わる。家賃を納める代わりに、早朝からの仕込みを手伝うとの約束どおり、朝6時から遙と一緒に、その日の弁当の仕込みをする。
朝食のあとも昼営業が始まるまで仕込みを続け、昼営業、昼食、休憩をはさんで夜営業だ。それで終わらず、店を閉めたあと毎日キチンと店の清掃をする。
夕食を摂って風呂に入れば、もう寝る時間になる。朝が早い分、夜寝る時間も早い。

始めのうちこそ、手を伸ばせばすぐに触れられるほど身近に遙がいる事で、暴走してしまわないか心配していた皇だったが、夜寝て朝起きるのが精一杯で、とてもそんな気持ちにはなれない。
だが遙に対する想いが変わったわけではなくて、例えば風呂あがりに下着1枚でウロウロしている遙の姿を見たり、食事の時なにげなく手が触れたり、それだけで皇の胸は高鳴る。

…俺は中学生か。情けない。
それなりに恋もしてきたし、恋人がいた時期もある。大人の恋愛を楽しむ術も、知っているつもりだ。
ただ、遙に対してはヘテロセクシャルである事と、今の関係が居心地よくて、積極的にどうこうという気にはならない。
…俺がゲイで、しかも自分に気があるコト知ったら、大将はどう思うやろ。
窓辺に座って、開け放たれた窓から夜空を見上げる。薄く雲のかかった中空に、半分欠けた月がぼんやり見える。

恋愛に関して疎いのか、仕事が忙しいからか、遙が誰かとつき合っている様子は皆無だ。
…大将は、どう処理してんのやろ。
健康な男性なら、どんなに疲れていても、何日かに一度は悶々とする事があるはずだ。そんな時、遙は休みの日に風俗に行っているのか。それとも手っ取り早く、自分で処理しているのか。

「ん…」
そう考えたとたん、皇自身が反応する。パジャマの上から触れてみると、少し変化している。皇は目を閉じて、遙の体を思い浮かべる。
ぶ厚い胸板、太い腕、腹筋の上にほんのり脂肪のついた腹、小さなヘソ、そして…。
「あ」

手の中の皇自身は、さらに容積を増す。握った形のまま、ゆっくり上下に撫でれば、足先まで甘い痺れが走る。
「アカン」
吐息と一緒に言葉がもれるが、手はとまらない。
…俺が、俺でええなら、なんぼでもヌいたるのに。
「大将…遙ァ」

「王子」
心臓が飛び上がる。遙を想って自分を慰めていたその瞬間、戸がノックされ、遙の声がする。
「王子、ちょおええか?」
「は、はい」
慌ててパジャマの中身が目立たないようにして、それから戸を開ける。

「…どないした? 赤い顔して?」
「いや、その、暑くて」
言い訳をしながら、遙を部屋に入れる。遙は、そない暑いかと言いながら、中に入って畳にアグラをかく。
「明日、店休みやろ? なんぞ予定があるか?」
「いや。昼まで寝とくつもりや。予定はなんも」
「ほな、俺とデートせえへんか?」
「デ、デート?」
声が裏返る。

「デートは冗談やけど」
皇の反応を面白そうに笑って、
「俺、休みの日はたいがい、食べ歩きしてんね。ほんで、日ごろの慰労も兼ねて、王子にご馳走したろかと思て。どうや?」
優しい声で訊く。

「そういうコトなら」
「よっしゃ、決まり。王子はイタリアンは大丈夫か?」
「ああ」
「このイタリアンレストランなんやけど」
遙は持っていた雑誌を広げて、皇に見せる。大きな駅の近くで、めったやたらと人の集まる場所にある、こじゃれた感じのレストランだ。
「ランチの冷製パスタが評判らしいねん」

「ふうん」
遙の指さす先を覗きこむ。自然と二人の距離は近づいている。
「前々から行きたかってんけど、男一人で行くのも気がひけて」
「ああ。そういうコト、あるな」
「せやろ」

頷いて、顔を見る。思ってもみなかった近さに、皇の胸は高鳴る。遙もまた、皇を見ている。
「王子は、ホンマにイケメンやな。目元が涼しくて、鼻も口もバランスがええ。…今、つき合ってる人とか、いてへんのか?」
「そんなんは、いてへん」
「ほな、好きな人は?」

「え」
訊かれて、とっさに表情が作れない。
「そうか。おってんのか」
遙は明るい声でそう言うと、皇の鼻をつまむ。
「なにすんね」
驚いて、皇は手で遙の手を払いのける。

「ハハ、かんにんかんにん」
気持ちよく笑いながら、
「イケメンの王子に好かれるやなんて、幸せな人やな。早よ告ってまえ」
「余計なお世話や」
遙相手に自分の気持ちを告げるなんて、今の皇には出来ない。どんな顔をしていいか分からず、口を曲げて横を向く。

「怒ったんか? かんにんな」
遙はいくぶん気落ちした様子で、頭をかく。
「なんや知らん、俺は王子が放っとけん。気になってしゃあないねん」
「え」
「それで気イ悪くしたら、かんにん」
もう一度、遙の顔を見る。太い眉の下のギョロッとした目は今、優しい色を帯びている。

「ほな、明日は昼前に出よか」
遙は立ち上がると、ポンとひとつ皇の頭を叩いて部屋を出ていく。
皇は遙に触れられた頭に、自分の手を乗せる。そこから遙の温かみが伝わってくるようで、知らず
ほほを赤らめる。
…俺が、気になってしゃあないて、どういうコトや。
そして、遙の言葉を何度も何度も心の中で繰り返していた。



翌日の昼、皇は遙と連れ立って雑誌に載っていたイタリアンレストランへ行く。こじゃれた店に合うようにと、いつものTシャツにジーパンではなく、ドレスシャツと綿パンに薄手のジャケットを羽織っておしゃれをする。
「お待たせ」
居間で待つ遙に声をかければ、遙もまたジャケット姿だ。

「おっ。王子、今日はまた、えらいカッコええな」
「大将こそ。馬子にも衣装や」
「言うとけ」
思えば、こうして遙と二人で出かけるのは初めてだ。おまけに遙はネクタイをしておらず、胸のボタンを2つはずしているので、逞しい胸板がチラチラ見える。いやおうなく皇の胸は高鳴る。

電車を乗り継いで、昼過ぎに遙の言っていたレストランへ着く。休日の昼食時で、外で待つ人もいるほどの盛況ぶりだが、遙は予約をしていたらしく、すぐに窓際の席に案内される。
ビルの高層階にあるこのレストランは、窓からの眺めもまた格別だ。雰囲気がいいからか、カップルや女性同士のグループがほとんどで、皇たちのように男の二人連れは目立つ。

「ココ、ええ席やな」
店の奥にある窓際の見晴らしのいい席は、特別な席だと皇は知っている。例えるなら、気になる相手を食事に誘ってプロポーズするような、そんな意味あいの席だ。
「こんな席に案内するやなんて、俺たちどんな関係やと思たんやろな」
「さあ。マフィアとホスト、やろか」
ゆったりイスに座ってメニューを広げながら、遙も上機嫌に笑っている。

冷製パスタの入ったランチコースを頼んで、ほどなく前菜(アンティパスト)が運ばれてくる。今日は魚介類のマリネだ。酸味の効いたドレッシングが魚介の生臭みを消し、食欲をそそる。
一品目から期待できる味だ。

二品目(プリモピアット)にお目当ての冷製パスタが出てくると、いよいよ食べる事に集中し始める。バジルとトマトのパスタは、色も鮮やかで味もさっぱりと食べやすい。皇はただ美味い美味いと食べるだけだが、遙は熱心にメモをとりながら食べている。
「なに書いてんね?」
つい気になって訊いてみる。

「ああ、弁当の味つけのヒントにならへんかと思てな。メモとっててん。気になったか?」
「いや。それはええけど。仕事熱心やな」
「俺はもともと、日本料理の板前をしてたんや。せやさかい、味に幅を持たせよと思て、こうして食べ歩きしてんね」
その話は初めて聞く。だが、遙の作る料理はどれも薄味だけど素材の味はしっかり残っている事や、ちょっとした包丁の入れ方が上品で見た目も美しい事を思い出して、皇は納得する。

「ほな、弁当屋を継ぐために板前の修業したんか?」
「いや。俺は”ひなた弁当”を継ぐつもりはなかったんや」
そう言う遙の顔を見る。いつか見た感情のない顔を、またしている。
「こないだ、おふくろが脳梗塞で倒れたて話したな。そのあと春奈一人じゃどうしようもなくて、ほんで板前辞めて戻って来たんや」
「せやったんか」

皇がつぶやいたところで、主菜(セコンドピアット)が運ばれてくる。白身魚の大きめの切り身を焼いて、あさりやドライトマト、黒オリーブ、アンチョビなどと一緒に軽く煮込んだ一皿だ。
遙は再び、真剣にメモをとりながら食べ始める。

コース最後のドルチェは、夏みかんのジェラートだ。ひんやり甘酸っぱいジェラートが、口の中をさっぱりとしてくれる。皇にとって久しぶりのイタリアンは、味も量も満足できる内容だった。
「ご馳走さまでした。ホンマ、美味かったわ」
「そうか。良かった」
店を出て、二人並んで歩く。遙と一緒に外食して、遙の話を聞いて。これでまた少し、遙に近づけたような気がする。

どんどん近づいて、どんどん惹かれて。気がつけば、いつも遙の姿を目で追って、声に耳を傾けている。
それでも、遙に想いは告げられない。
…近くにいてて、笑顔が見れるだけでええと思てたのに。それだけじゃ足りんように、なってしもた。どんだけ、俺は欲張りなんや。

考えながら建物の角を曲がる。と、向こうから歩いてきた男とぶつかりそうになる。
「あ、すんません」
「いえ」
お互い顔を上げたところで、あっと小さく声をあげる。
「三城…三城やないか」
「岡崎」

「知り合いか?」
そのまま立ちつくす皇に、遙はいぶかしげに声をかける。岡崎と呼ばれた男は、皇と変わらないくらいの長身で、オーダー物のスーツをカチリと着こなした、いかにもエリート然とした男だ。弁当屋でバイトしている皇とこの男との組み合わせを、遙が不思議に思うのも無理はない。

「三城、おまえ」
「大将。すまんけど、先に戻っといてんか。俺はこの男と話があるさかい」
岡崎が何か言う前に、皇は先を制して遙にそう言うと、そのまま岡崎を促がしてその場をあとにした。




  2012.09.19(水)


    
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