まんじりともせずに夜が明ける。
昨夜、初めて遙とケンカをして、高ぶった気持ちのまま風呂を使って、いつも寝ている遙の部屋に行くのもシャクにさわって、結局自分の部屋で一夜を明かした。
「うう」
よく眠れなかったのは、ケンカの興奮がまだ冷めていなかった事もあるし、エアコンもなく蒸し暑い部屋で寝たからでもある。

それでも、いつもの時間に目が覚める。今日も朝早くから仕込み作業が待っている。よっぽどサボってしまおうか悩んだが、自分が手伝わないと遙に迷惑がかかると思い直して、布団から出る。

朝の仕度を終えて厨房におりれば、すでに遙は作業を始めている。
「おはよう」
「…おはよう」
いつもの明るい声で挨拶するのに、皇は小さく返事する。
作業をしている間も、昼営業の時も夜営業の時も、遙の態度はいつもと変わらない。

だが、対する皇の態度はぎこちない。言い合いになってしまったが、自分の意見は間違っていないし遙のためにもなると、そう確信しているからだ。
だから自分からは決して折れないと、心に誓う。
仕事は仕事としてキチンとこなす、受け答えも、事務的ではあるがちゃんとする。しかし、仕事が終わって夕食をすますと、さっさと自分の部屋に入る。

そんな生活が数日続くうちに、皇は精神的にも肉体的にも限界に来ていたのだろう。
「もう食べへんのか?」
「食欲、ないねん」
遙の作った夕食にもほとんど手をつけず、イスから立ち上がったとたん、立ちくらみがおこる。
「王子」
その場にしゃがみこんだ皇を見て、慌てて遙は立って行って体を支える。

「どないした?」
「体、だるい」
「熱あるんとちゃうか? とにかく、横になって」
皇を支えて、居間のソファに寝かせると、熱を測ったり氷嚢を作ったり、かいがいしく世話をする。
「暑さ負けやろか? エアコンのない部屋で寝てるさかい。苦しいコト、ないか?」
「うん」
自分を覗きこむ遙の心配そうな顔に、皇は素直に頷く。

「なあ、王子」
「うん?」
「そろそろ、仲直り、せえへんか? それとも、まだ怒ってるんか?」
皇の憤りは、もうとっくにどこかに消えている。
「もう、怒ってへん」
ゆっくり答えた瞬間、遙の瞳がパッと輝く。

「良かった。まだ怒ってて、王子がおらんようになったら、どないしよて、心配してた」
「アホやな。俺の方こそ、このまま大将と気まずくなって、店にいられへんようになってしもたら、どないしよて」
「そんなん、あるか」
遙は皇の額に手を乗せる。
「王子は店にとっても、もちろん俺にとっても、掛け替えのない存在や」

「おおきに」
誰かに”掛け替えのない存在”と言われたのは、初めてだ。ましてや、いとしい遙にそう言われて、皇の胸は熱くなる。だが、皇はありきたりの言葉でしか、この熱さを伝えられない。
だから、自分の額にある遙の手を取って、指先に口づける。
「王子」
皇の熱がそこから移ったかのように、遙は目を潤ませて皇に顔を近づけると、しっとり唇を重ねる。

何度も重ねて、ついばんで。唇が離れた時には、二人とも熱いため息がもれる。
「アカン。辛抱たまらんように、なってしもた」
「俺も。けど、」
明日も早朝から仕事がある。皇はそれを考えて横を向くが、遙は皇の耳元で、低く、
「皇が、欲しいねん」
「名前、ずるい。拒めへん」
「ほな、黙って。全部、ゆだねて」
「遙」
名前は遙の口の中に消える。熱くて重い遙の体に抱きしめられて、皇は深い幸福感を感じていた。



ケンカして仲直りして、”掛け替えのない存在”と言われて。遙との絆がますます強くなったように、皇には思える。仕入れ先を変えて儲けを大きくする話も、遙が納得しないのであればと引っ込める。
だが、どうしてそこまで頑なに遙は儲けを増やす話を嫌悪したのか、皇には疑問が残る。それもまた、時期がくれば話してくれるだろう。遙がその気になるのを、皇はいつまでも待つつもりだ。

季節は巡って秋も深まった頃、春奈は生み月を迎える。予定では来週らしいが、初産なので遅れるかもと遙は言っていた。大型船で調理員をしている春奈の夫も、その前には陸に上がって帰ってくる、とも。

そんなある日の夕方、一人の初老の女性が、店に入ってくる。
「いらっしゃい」
カウンターに入っていた皇は、いつもどおり明るい笑顔で迎える。
「おばちゃん、注文決まったら、教えてな」
「え、ああ」
頷いて、一歩前に出る。だが、その女性は足が不自由らしく、バランスをくずしてよろけてしまい、とっさにカウンターに手をつく。
手をついた拍子に、レジ近くに積んであったミソ汁のカップの山が崩れて、床に落ちてしまう。

「おばちゃん、大丈夫か?」
皇は慌ててカウンターから出ると、女性の手を取って近くのイスに座らせる。
「かんにん。ミソ汁、落としてしもたな」
「ああ、かまへん。俺が拾うさかい。それよりおばちゃん、ケガないか?」
「大丈夫や。お兄ちゃんのような男前に手ぇつないでもろて、元気が出たわ」
「ハハ。冗談が言えるくらいやったら、大丈夫やな」

「王子、どないした?」
そこに、奥で電話をかけていた遙が顔を出す。そして、イスに座る女性を見ると、
「お、お母ちゃん」
驚いた声を出す。

「お母ちゃんて、ほな、このおばちゃん…」
「黙っててかんにんな。うちは遙と春奈の母親で、日南田静子(ひなたしずこ)や」
「三城皇、です」
まさかこの女性が遙の母親とは。皇はまっすぐに立つと、バンダナを取って丁寧に頭を下げる。
「そうか、あんたが”シャケ弁王子”か」
静子は皇の顔を見て、ニッコリ笑う。
「遙、ええ子を雇たな。あんたにしたら上出来や」

「お母ちゃん、それより急に来て、どないしたんや?」
「どないもこないも。うちが自分の家に来るのに、理由がいるんか? それに、あんたは放っておくと全然顔も見せに来おへんし」
「一人で来たんか? 春奈は?」
「あんな大きいお腹かかえて、一緒に出歩けるかいな」
体の大きな遙が、自分の胸くらいしかない静子にポンポンとまくしたてられるのが可笑しくて、皇は横で聞いていてつい笑ってしまう。

「王子、笑てんと。助けてくれ」
「自分でなんとかしたらええやん」
「冷たいヤツや。…せや冷たいで思い出した。こないだ作った煮こごり、まだあったやろ」
「ああ。確か冷蔵庫の中に入ってたで」
「それ、春奈の大好物やねん。それとナスの煮びたしがあるさかい、ちょおタッパーに入れてんか」
「わかった」
そんな二人のやりとりを、静子はニコニコ笑いながら見ている。

皇は遙に言われた煮こごりとナスの煮びたし、それに幾つかの料理をみつくろって、タッパーに詰めて持っていく。
「おおきに。遙、あんたも時々は顔を見せに来(こ)な」
静子は立ち上がると、皇からタッパーを受け取ろうとするが、足が痛いのかその場にしゃがみこんでしまう。
「お母ちゃん、大丈夫か?」
「ああ。こんな天気の時が、一番アカンな。足が言うコトきかへん」

「大将、俺が送って行こか?」
閉店までにはまだ時間がある。遙が店を離れるわけにはいかない。
「せやな。ほな、頼むわ」
「ああ」

頷いて、皇は静子の前に背中を向けて腰を落とす。
「どうぞ」
「いや、こんな男前にオンブやなんて。寿命が延びるわ」
喜々として、静子は皇の背中におぶさる。
「ほな、行てきます」
皇はそう言うと、心配そうな顔で見送る遙に笑顔を見せて、店をあとにする。

「いつも遙の面倒見てもろて、おおきにな」
春奈と暮らすアパートに戻る道すがら、静子は皇の背中で頭を下げる。
「いや、コッチこそ。どこにも行き場のなかった俺を雇てくれて、おまけに部屋まで貸してもろて。ホンマ、大将と春奈さんには感謝してます」
「あの子らは、おせっかいやさかいな。放っておけんかったんやろ」
「大将も、そう言うてました」

「遙は、あの子は人はええんやけど、ヘンコ(=偏屈)なトコもあるさかい、一緒におって腹の立つコトもあるやろ?」
「そら、ないて言うたらウソになるけど、」
皇は先日のケンカを思い出す。
「けど、大将は訳もなく怒る人とちゃうし。それに俺かて完璧な人間とちゃいます。どっか足りん。その足りん人間同士、上手く補っていければ、それでええんとちゃうかて、最近思い始めましてん」
「その通りやな」
静子は大きく頷く。

「遙はあんたをずいぶん信用してるようやしな。店の出納帳も、あんたに任せてんのやろ?」
「はい。なんや知らんけど、そんなコトになってしもて」
「うちの仕入れ額が多いさかい、仕入れ先変えろて言うたそうやな。春奈から聞いたで」
「はい」
ウソではない。正直に答える。

「けど大将は、近所の商店街はおやじさんの代からのつき合いやさかい、変えられんて。あんまり俺が”儲け儲け”言うさかい、叱られました」
「そうか。けど、それはあんたに対して憤ってたんやなくて、春奈の父親のコトが原因やと思う」
「え?」
静子の言葉を、皇は思わず訊き返す。

「ちょお。そこで、おろしてんか」
イスのあるところで、静子をおろす。静子は皇にもかけるように促がすと、ひとつため息をついて話し始めた。




  2012.10.03(水)


    
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