次の日、皇は言われた通り朝8時に”ひなた弁当”へ行く。まだ表の店側は開いていないので、裏の勝手口に回る。
「おはようございます」
「おお。おはよう」
「おはよう」
挨拶をする皇に、遙と春奈は顔を上げて元気な声で挨拶を返す。

だが、勝手口に立つ皇の顔を見て、一瞬言葉を失う。
「え、シャケ弁くん、か?」
確かめるように遙が訊くのも無理はない。
弁当屋で働くのに、小汚いままで来るのがはばかられて、昨日のうちに不精で伸ばしていたヒゲを剃り、髪もきれいに結んできた。

ヒゲもなく髪も整った皇は、涼しげな目元に端正な顔立ち、長身でバランスのとれた長い手足と、まるで少女漫画から抜け出てきたかのように見栄えがする。
「いやあ、ヒゲないと、ますますイケメンやん」
春奈はわざわざ寄って来て、うっとりと皇を見上げる。
皇自身、自分の容姿は優れていると自覚しているが、それでも手放しで誉められるとむずがゆい。

「若(わ)こ見えるけど、うちとタメくらい?」
20歳そこそこの春奈と同じ歳くらいかと真顔で訊かれて、どんな顔をしていいのか分からない。
「いや、なんぼなんでもタメはない。俺、30越えてるし」
「ウソっ! ホンマ!?」
「ほな、俺と1コしか違わんのか」
遙も驚いた顔を見せている。

「けど若くてこんなオコトマエやったら、シャケ弁くんやなくて、シャケ弁王子やわ」
「お、王子?」
「うん。クマみたいな遙とは、大違いや」
「アホか」
春奈の言葉に苦笑して、遙は店の奥から前掛けとバンダナを持ってくる。

「ほな荷物は奥の部屋に置いて。俺の洗い置きでかんにんけど、前掛けとバンダナ着けて」
「はい」
荷物を奥の休憩室に置いて、前掛けを着ける。だがバンダナをするのは初めてで、上手く出来ない。
「どれ」
見かねて遙が手伝ってくれる。

すぐ近くに遙がいて、自分の頭に触れている。そう思うだけで、皇の胸は高鳴る。
「ほな、手洗(あろ)たら、春奈を手伝ってんか、王子」
「はい。…は?」
ぼんやりしていた皇は、”王子”と呼ばれてうっかり返事してしまう。
ポンとひとつ、皇の頭をバンダナの上から叩いて、遙はニッコリ笑うと自分の持ち場に戻る。

「…」
遙の触れたところから、温かい気持ちが伝わってくるようで、皇はつられて自然と笑顔を浮かべていた。



”ひなた弁当”の営業は、昼と夜に分かれている。昼は午前11時から2時まで。休憩をはさんで、夜は夕方5時から夜8時までだ。日曜祝祭日は休みだが、まとまった予約が入れば融通を利かせる。
皇の仕事は、朝8時に来て仕込みの手伝いから始まる。昼は主に近所の会社や得意先への配達だ。カウンターに入って注文を受ける事もする。

パートの女性は昼で帰り、あとには皇と遙、春奈の3人が残る。昼のまかないを食べて、休憩をとってから夜の営業となる。
最初の頃は春奈も閉店近くまでいたが、1ヶ月も経って皇が慣れてくると、夕方には仕事をあがるようになる。
ハッキリと聞いたわけではないが、体の悪い母親が近所のアパートに住んでいるらしい。夕方からはその母親のところに行って、面倒をみているようだ。

夕方5時からの営業は、配達がないぶん昼より楽だが、夕食時や学生、サラリーマンなどの帰宅時間には、遙は厨房にかかりっきり、皇はカウンターで注文を受けて代金を受け取ってと、目の回る忙しさだ。
だが、忙しさにも波があるので、遙とまだ不慣れな皇の二人でも何とかこなせている。

皇を採用する時、体力がありそうだからと遙は言っていたが、働き始めてからその理由を痛感する。弁当屋の仕事は、基本立ちっぱなし。おまけに、重い鍋を持ったり大きなフライパンをふったり、力仕事がやたらに多い。食材や調味料も箱単位、キロ単位で発注するので、それを運ぶだけでも骨が折れる。
体力には自信のある皇だが、前の引越しのバイトで鍛えられていなければ、早々に音を上げていたかもしれない。

どうりで、遙の腕や胸板は素人とは思えないくらい鍛えられているわけだ。後ろで使った鍋を丁寧に磨いている遙の、発達した大胸筋がコリコリと動くさまを垣間見ながら、皇は熱いため息をつく。
「どないした?」
皇の視線に気づいたのか、遙が顔を上げる。
「いや。なんも」
慌てて自分の手元に視線を落として、皇は野菜を切る。

「王子。もう少し細く、繊維に沿って切ってんか」
しばらく遙はその様子を見ていたが、水道をとめて、手を拭きながら皇の後ろに立つ。そして、皇の手に自分の手を重ねる。

一瞬、心臓が大きく鼓動する。
「左手はネコの手にして。そう、手を軽く握れば、ケガするコトもないやろ」
遙の息が、耳にかかる。
「ほんで、トントン、と。こうや」
すぐそばで、人懐っこい笑顔を見せる。
「わかったか?」

「は、はい」
魅力的な遙の笑顔から目が離せなくなって、つい、じっと見つめてしまう。
「おっと、かんにん」
そんな皇の気持ちも知らず、遙は苦笑すると一歩後ろに下がる。
「近かったな。どうも俺は手取り足取りしてしもて、アカンな」
皇が自分を凝視するのは、自分があまりにも近くにいた事への困惑か、もっと言えば嫌悪と受け取ったようで、かんにんなと言いながら頭をかいている。

「いや。気にしてへん」
「けど、こないだ春奈に、王子にセクハラせんといて、て言われたし」
面倒見のいい遙は、時間がある時はこうやって皇に調理のイロハを教えてくれるが、密着するほど近くで教えるものだから、春奈がそう注意したのだ。
「あいつ、どんだけ王子が気に入ってんねん」

「気にいってる、て…」
「亭主のある身でなあ」
遙は冗談とも本気ともとれない声でそう言って、腕を組む。まさか本気で春奈が皇に好意を寄せる事はないだろうし、皇が春奈に応える事もありえない。
「春奈さんは世話好きやさかい、不慣れな俺のコト放っておけんのとちゃうか?」
だから、遙の邪推を解こうと、皇は続ける。
「それに、俺はどっちかて言うと、年上で大きい人がタイプやし」

「そうなん?」
今度は遙が皇の顔を凝視する。そのギョロッとした目は、皇の心の奥底を見ようとしているようだ。
一瞬、言葉に自分の本心が透けてしまっただろうか。皇はこれ以上、自分の気持ちを読まれないように、顔を伏せる。
「へえ。王子は年上で胸の大きな女がタイプか」
だが遙は呑気にそう言うと、皇の肩を軽く叩く。

「俺も、嫌いとちゃうで」
「いや、胸の大きいとかやなくて」
顔を上げて言うが、
「照れんといてもええやないか」
ニヤリと笑って、そうか巨乳好きなんか、とつぶやきながら流しの前に戻る。

さっきの皇の発言を聞けば、ヘテロセクシャルの男ならそう考えるだろう。遙のカン違いに、皇は苦笑いする。
手元に目を落として、左手をネコにして、野菜を切る。教えられた通り、繊維に沿って丁寧に。

自分の気持ちを、遙に告げる気はない。皇の気持ちを知れば、優しい遙は大いに悩むだろう。自分の一方的な想いで悩む遙の姿は、見たくはない。好きだという気持ちを知られれば、一緒に居られなくなる。
「…」
それは、絶対に嫌だ。

想いを遂げたいわけではない。ただ、そばにいて、人懐っこい笑顔を見て、よく響く声を聞いて。それだけで満足できる恋だ。そうしなければ、いけない。
皇は丁寧に野菜を切りながら、あらためてそう思っていた。



5月の大型連休を過ぎる頃には、春奈も安定期に入ってツワリはおさまったようだ。だが今日は昼のまかないを食べたあと、遙と額をつき合わせて渋い顔をしている。
「王子、ちょおええか?」
「なんや?」
食べ終わったあと、自分の使った茶碗を片づけていた皇を呼んで、遙はちゃぶ台の向こうに座らせる。

「実は、パートのおばちゃんが今月いっぱいで辞めんね」
「おばちゃん、いよいよ腰が悪なったみたいで。うちも、これからお腹が大きなっていって、そうそう長い時間、店にはおれへんようになるし」
となると、店は皇と遙の二人で回さないといけなくなる。皇もいくらか調理に慣れたとはいえ、春奈やパートの女性のようには動けない。

「そら、夜はともかく、昼は配達もあるさかい、厳しいんとちゃうか?」
「そうやねん」
大きく頷いて、遙と春奈は同じように困った顔を見せる。
「おばちゃんの代わりにパートを雇うにも、急には適当な人もおれへんし」
「王子、なんぞええ知恵ないか?」

請われて、皇はしばらく考えていたが、
「これは、ひとつの案として聞いて欲しいのやけど」
前置きをしてから、話し始める。
「前々から考えてんけど、弁当のメニューを絞ったらどうやろか。うちで一番売れてんのは、昼も夜も日替わり弁当やろ? 日替わりと、あと売れ筋を2つか多くて3つ。メニューを絞れば仕込みも調理の手間も、ずいぶん違(ちご)てくると思うで」

「それは…」
皇の意見に、遙は驚いた表情を浮かべる。だが、頭から否定はしていない。遙の顔を見て、皇は畳みかける。
「人は少なくなんのに、作業量は同じではやっていけんやろ。俺も早よ覚えるよう努力はするけど、すぐすぐは無理や。なら、作業量を減らすしか方法はないんとちゃうか?」
「せやかて、」

「よっしゃ。それでやってみよか」
だが、返事をしぶる遙を尻目に、春奈は明るい声で決定する。
「メニューを絞ったら、今の状況でもなんとかなりそうやな」
「せやけど、春奈」
「やってみてアカンかったら、そん時考えたらええやない。うちは王子の意見に賛成やわ」

「しゃあないな。ほな、来月からそうしよか」
春奈に押し切られた形で、とうとう遙も同意する。
「うん。日替わり以外のメニューの選定は遙がするとして、王子は来月からメニューを絞るて、店内POPやらチラシやらで知らせてんか」
「はい」
頷いて、遙と目が合えばニッコリ笑って、
「おおきにな。これでなんとかなりそうやわ」
礼を言う。

…俺も、少しは役に立てたやろか。
遙の嬉しそうな顔を見て、皇も幸せな気分になっていた。




  2012.09.12(水)


    
Copyright(C) 2011-2012 KONOHANA SYOMARU. All Rights Recerved.
inserted by 2nt system