その翌日、竜次は再び啓志郎のもとを訪れる。事前に連絡して都合のいい時間を訊いたところ、今回も診療時間の終わったあとを指定した。わに整骨院のガラス戸にはカーテンが引かれ、中はうす暗い。

竜次は手に持った茶封筒を見て、ため息をつく。この中には啓志郎から紹介された整形外科で検査を受けた結果が入っている。竜次を検査をした近藤は、スポーツ障害に関する専門知識を備えたスポーツドクターだ。
その近藤をして、ヒザはともかくこの腰の状態でプロ格闘家としての復帰は無理と言わしめた。

・・・そんなん、わかってんね。
ヒザを治して、腰痛の原因を取り除いて、またイチから実績を積み上げて。竜次の目指す頂は遥か遠く、雲に隠れて見えない状態だ。
それでも、一歩一歩登っていきたい。いや、登っていかなくてはいけない。

竜次は奥歯を噛みしめて、インターフォンを押す。
「はい?」
「今井です」
短いやりとりのあと、灯りが点いてカーテンが開く。
「どうぞ」
「押忍」
ガラス戸を開けた啓志郎に一礼して、竜次は中に入る。

あとに付いて、施術室へと入る。机の前に座った啓志郎に促されて、向かい側のイスに座る。
「検査結果、見せてください」
「押忍」
手に持った封筒を渡す。

啓志郎はそれを開くと、中に入っていた書類と写真を丹念に見る。
黙ったままの啓志郎の前で、竜次は落ち着かない。子どもの頃から、”先生”と呼ばれる人に怒られる事はあっても誉められた事はない。怒られるような事しかしてこなかった自分が悪いのだが、それでも気詰まりを感じる。

書類を繰る啓志郎の顔を見る。
うつむいた白い顔に長いまつ毛が影を落として、さらに凛とした顔立ちに見える。黒く艶やかな髪をひとつに束ねているので、細いアゴから首筋へとつながる曲線がハッキリとわかる。本当に美人だ。
この美人が、プロ格闘家の強豪を相手にしてきた自分をも震え上がらせるほどの迫力の持ち主だなんて、いまだに信じられない。

復帰の手助けをしてもらえるかどうか、その判断を待つ大事な場面だというのに、竜次はまったく別の事を考えている。
「今井さん」
「お、押忍」
呼ばれて、背筋を伸ばす。

「近藤先生は、なんて言うてはりました?」
「ヒザはともかく、この腰の状態やったら復帰は無理やと」
「そうですか」
言って立ち上がると、部屋の隅においてある人体の骨格模型を持ってくる。

「これが正常な背骨の状態です」
頚椎から尾てい骨にかけて、緩やかなS字カーブを描いている。
「この4番目と5番目の腰骨、見てください」
促され、イスごと近づく。
「こんな風に、規則正しく並ばなアカンのが、今井さんのはズレてます」
今度はレントゲン写真を見せる。

言われて、よくよく見比べるが、竜次には違いが分からない。
「先生。俺には、ようわかりません」
「ここや。よう見て」
さらに啓志郎から近づいてくる。確かに、啓志郎が指差す箇所と模型とを見比べると、骨の並びが歪(いびつ)になっているのがわかる。

だがそれも、ほんの僅かだ。指摘され模型と見比べて、初めて分かる程度でしかない。
「ほんのちょっとですやん」
あるかないか分からない程度の歪みが腰痛の原因で、自分の復帰を妨げる一番の要因となっているのであれば、近藤は大げさに考え過ぎているのかもしれない。
そして、谷本が”腕がいい”と太鼓判を押す啓志郎にかかれば、簡単に解決できる問題かもしれない。

期待をこめて、竜次は顔を上げる。
「今井さん」
だが、ほんの近くにある啓志郎の目は、厳しい色をしている。
「”腰”という字は”体の要”て書きます。重要な場所です。そこがズレて、痛みを発している。そうすると体全体のバランスがおかしなる。ケガをしやすくなる」
指摘され、緩みかけていたほほが再び締まる。

「もうずいぶん前から、腰痛があったはずです。今回も腰をかばって、ヒザをいわした(=痛めた)のと、違いますか?」
力なく頷く。
「このズレは、ほんのちょっととは違う。長年激しい鍛錬を重ねてきた結果、ここまでズレたんです」
「ほな、先生も俺の復帰は無理やと、そう言わはるんでっか?」
間近にある啓志郎の目を見つめる。

否定して欲しい、復帰できると言って欲しい。強い願いをこめた竜次の目を、しかし啓志郎は厳しい色のまま見て言う。
「俺も、近藤先生と同じ意見です」

「アカン!」
どこに行っても誰に会っても、”復帰は無理、諦めろ”と一様に言われた。だが初めて会った時、痛みのある場所を軽く撫でただけで自分に安眠をくれた啓志郎なら、もしかして前向きな返事をくれるかと、淡い期待を持って今日は来た。
それなのに、啓志郎にまで復帰は無理と言われ、思わず竜次は鋭い声をあげる。
「無理じゃアカン! 治るて言うてくれな、復帰できるて約束してくれな、アカンね!」

立ち上がり、啓志郎の両肩に手を置いて強く掴む。
「・・・っ」
痛みに歪む啓志郎の顔を見て、ハッとする。
「す、すみません」
興奮のあまり、力任せに啓志郎の肩を掴んだようだ。謝って手を離し、力なくイスに背中を預ける。

「アホなガキ」
ひとつため息をついて、啓志郎は低く言う。
「俺は神様とちゃう。無理なモンは無理や」
「それでも、俺は復帰したい」
天井を仰ぎ、きつく目を閉じて両手で覆う。

しばらく二人黙っていたが、啓志郎が立ち上がってどこかに行く気配を感じる。滅茶苦茶な事を言う自分に愛想を尽かしてしまったのだろうか。
そう考えていると、ほほに冷たい何かが押しあてられる。
「水や。飲め」
見ればペットボトルを持って、啓志郎が立っている。

「押忍」
受け取って、栓を開けて飲む。ミネラル分を多く含んだ硬水だ。啓志郎も同じ水を飲んでいる。
ペットボトルが半分になった頃、啓志郎が訊く。
「なんで、復帰したいんや?」
「なんで、て」
口に含んだ水を飲み下す。

「現役のプロ格闘家やなんて、つらいばっかりやろ。生活の中心はトレーニング。食事内容から制限されて、精神的にも常にプレッシャーがかかってる。勝ちつづけな生き残れん世界で、体力の衰えやケガに怯えて。おまけに若い世代はどんどん出てくる。例え勝っても、賞金はスズメの涙や」
「せやな」
啓志郎の言葉に、竜次はにが笑いする。

「もう27歳やろ。自分でもわかってるはずや、自分の引き際が」
「あんたの、言うとおりや」
いつの間にか、平易な言葉で二人は話している。
「この商売、どっかで辞めなアカン。けど、それは今やない」
啓志郎の切れ長の目が、まっすぐ竜次を見つめる。

「俺はまだ満足してへん。もっともっと、やれるはずや。もっともっと強なって、誰も文句のつけようがない、最高の一撃で対戦相手を沈める。それが叶わんうちは、辞めるわけにはいかへんね」
「・・・満足してへん、か」
黙って聞いていた啓志郎は、ひとりごちる。

「ずいぶん強欲なヤツやな」
「欲深やないと、この世界やっていけへん」
「おまけにドMや」
「言うとけ」
小さく笑って、ペットボトルの水をひと息に飲み干す。

「で、いつから来てええんや?」
「は?」
「”は?”やあれへん。あんた、俺の話を聞いて、俺の復帰の手助けをする気になったんやろ」
真剣な顔で言う竜次に、啓志郎は聞こえるように大きなため息をつく。
「アホか。無理やて、さっきから言うてるやろ」
「無理でもなんでも、なんとかしてくれるやろ、あんたなら」

「なんでそう思い込むんや?」
啓志郎の目に力がこもる。ただ見据えられているだけなのに、体中を強く押されているような圧迫感を感じる。
「そら、決まってる」
その目力に負けないよう、竜次は呼吸を整える。

「あんたが、俺を眠らせてくれたからや」
意外な答えに、啓志郎からの圧迫感が少し小さくなる。
「前回ここに来た時、あんたに体触られて、気持ちよくてグッスリ寝てしもた。マッサージや整体や医者の治療も何度も受けてきたけど、あんなに気持ちよう眠れたのは初めてや」
顔を見る。ちゃんと聞いている。

「あんたの手と俺の体と、きっと相性がええんや。せやから」
「・・・ホンマに」
再び大きなため息をついて、啓志郎は眉根を寄せる。
「口ばっかり達者なガキやな」

「ガキと違う。今井竜次や」
右手を差し出す。
「よろしく、先生」

差し出された右手と竜次の顔とを交互に見て、啓志郎はイスに深く座って足を組む。
「グッスリ眠れた? 俺の手とおまえの体と相性がええ? よう言うわ。舌先三寸で客をたらしこむ商売が、おまえにはお似合いやで」
「それは、辞めてから考える。とにかく、俺にはあんたが必要なんや。もうあんたしか、頼れる人はおれへんね」

自分からは決して目を逸らすまいと、竜次は啓志郎の目を見つめる。啓志郎もまた、竜次を見つめる。
しばらく二人で見つめ合っていたが、啓志郎はアホかと小さくつぶやいて目を逸らす。
「先生」
「・・・明日、16時半や。保険証持って来(き)い」
「え」
空耳かと思うが、啓志郎は診察机のパソコン画面で予約の空きを確認している。

「しゃあない。しばらく、つき合(お)うたるわ」
啓志郎の横顔は、どことなく穏やかに見える。
「先生。俺、」
「けど、復帰できるて保証はあれへんさかいな」
早口で念を押す啓志郎に竜次は、
「明日16時半はバイトが入ってるさかい、時間ずらしてんか」

「はあ?」
平気な顔でそう言う竜次に、勝手にせえと吐き捨てて、啓志郎はキーボードを強く叩いた。




  2013.11.02(土)


    
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