試合で負ったヒザのケガと慢性の腰痛を抱えて、プロ格闘家への復帰の道を模索する竜次に、啓志郎という強い味方ができる。
啓志郎は”わに整骨院”の院長で柔道整復師でもある。専門の学校で3年間勉強し、国家試験に合格してはじめて資格取得できる柔道整復師は、骨や間接などを治療する専門家と言える。

医師と違って投薬や注射などの医療行為は出来ないが、代わりに手や器具などを使ってズレたりはずれたりした骨を元の状態に戻したり、ギプスやテープで固定したり、回復機能を早めるため手でもんだり伸ばしたり、いろいろな施術を行って患部の回復を図る。

柔道整復師という名称からも分かるとおり、もともとは柔道から発生した治療技術だ。武道のひとつである柔術には、相手を倒す殺法と外傷を負った相手を治す活法があったが、その活法の技術から発達した接骨術と近代西洋医学とが融合して、現在の形になった。
柔道整復師が皆、柔道の達人というわけではないが、啓志郎は何らかの武道経験者ではないかと竜次は思う。

竜次がプロ格闘家として復帰するには、ヒザと腰の状態を改善しなければならない。復帰の手助けをするに当たり、啓志郎が竜次に約束させた事がある。
「絶対服従、やて?」
「せや」
治療計画を相談する場で、最初に啓志郎は言い渡す。

「プロ格闘家として、それも出来るだけ早(は)よ復帰したいやなんて無茶を言うんやったら、俺の言うコトを黙ってきけ」
「おいおい、冗談やろ?」
竜次はプロの世界に身を置いて、何年も活躍してきた。自分なりのトレーニング方法や治療方針にこだわりがある。

それを一介の柔道整復師である啓志郎が、全て取り仕切ると宣言する。納得いかない。
「あんた、格闘家の体が、それもプロ格闘家の体てモンがわかって言うてんのかいな」
抗う姿勢を見せる竜次に、啓志郎は厳しい眼差しを向ける。
「絶対服従が最低条件や。きけへんのやったら、この話はチャラやな」
「それは、アカン」
冗談ではなく、本気で言っている目だ。

「なあ、先生」
啓志郎の本気を知って、竜次は口調をやわらげる。
「俺の体は、俺が一番わかってる。せめて、俺の意見も聞いてんか」
懐柔しようとする竜次の言葉を、啓志郎は鼻で笑う。

「俺の意見を聞け、やて? 俺の体は俺が一番わかってる、やて? どの口が言うてんね」
イスに深く腰かけて、長い足を形良く組む。
「おまえが自己流で間違ったトレーニングや治療を続けてきた結果が、今のおまえの状態を作ったんやないか」
「それは、そうかもしれんけど」
正論を吐かれて、言葉に詰まる。

「せやのに、俺の意見を聞けやなんて。寝言は寝て言(ゆ)え」
切れ長の目で見据えて、辛らつな言葉を吐く。キレイな顔をしているのに口の悪いヤツだと、また思う。
「ほな、先生は治療計画をどう立ててんね?」
訊けば、
「まず根本的な治療を、スポーツドクターの近藤先生のトコで受けてもらう。近藤先生トコならスポーツ障害の患者さんもぎょうさん扱(あつこ)うてるし、リハビリ施設も整ってる。アスリートの体にかて精通してる。ある程度動けるまで機能回復してから、トレーニング開始や」

”リハビリ”だの”機能回復”だの、竜次の苦手な言葉が並ぶ。思ったとおりだ。竜次の表情は渋いものになる。
「納得できんのやったら、やめてもええんやで」
「脅かしいな」
ふた言目には”やめる”だ。啓志郎は辛らつなだけでなく、意地も悪い。

「人の足元みくさって。しゃあない、やるわ」
「あんなあ」
腕を組み鼻を鳴らす竜次に、啓志郎は険しい表情をする。
「なんでそう上から目線やねん。俺はおまえの無理なお願いをきいてんのやで。四の五の言わんと、俺の言うとおりにすればええんや」

啓志郎の言う事が正しい。だが改めてそう言われると、素直になれない。不満が顔に出る。
「納得でけへんのか? どっちが立場が強いか、この場でハッキリさせたる」
強く光る目で竜次を見据えて、啓志郎は言い渡す。
「復帰したければ、絶対服従。イヤも応もない。ええな、竜次」

初めて、名前を呼ばれる。呼び捨てだ。自分の名前を呼び捨てにした啓志郎の目を見る。残酷なまでに冷静な目だ。
もし、他の人に同じ事を言われ名前を呼び捨てにされたら、憤りを感じてますます頑なになるだろう。死んでも絶対服従などするものか、と。
だが啓志郎の目には、圧倒的な力がある。自分がどう抗っても敵わないと感じさせる、そんな強さがある。

・・・絶対、素人とちゃうで。
啓志郎は武道経験者ではないかと、また思う。
「押忍」
啓志郎の強い目に屈服するように、竜次は頷いていた。



啓志郎によると、ケガをしたヒザはある程度動かせるまでに回復している。このままスポーツドクターである近藤の指示に従って治療を続けていけば、元の状態に戻るそうだ。
だがやはり、腰がいけない。長年の厳しいトレーニングによって負担をかけてきた結果の慢性腰痛なので、治すには時間がかかる。もしかしたら回復しないかもしれない。

「普通の人やったら、痛みが無(の)うなるだけでも恩の字やのになあ」
施術台でうつ伏せに寝かせた竜次の腰に触れながら、啓志郎は言う。
「おまえは、それではアカンのやろ」
「押忍」
そのとおりだ。ただ痛みが無くなるだけではなく、プロ格闘家として活躍できるほど回復しなければ意味がない。

「スイミングは? 行ってるか?」
腰痛を改善するためには、腰まわりの筋肉を強化するのが効果的だ。そのため竜次はスイミングクラブに通い始めた。プールの中なら、腰やヒザに少ない負担で狙った筋肉を鍛えられる。啓志郎の提案で、近藤に運動内容を考えてもらった。

「押忍。行ってる」
水泳はヒザや腰に負担をかけずに、心肺機能や筋力、持久力を強化できる。今の竜次には最適のトレーニング方法だ。真面目に通ううちに、少しずつではあるが自分の体力が回復しつつあるのを感じている。
「足と腰の強化ができたら、器具を使ってのトレーニングや」

「いつ頃からできそうや?」
「焦りイな」
穏やかな声で、しかしキッパリと啓志郎は言う。
「まだ始めたばっかりやないか。家で言うたら基礎の基礎、土地ならしをしてるトコや。大きくて頑丈な家を建てるためには、しっかりと基礎工事しとかなアカンやろ」
「押忍」

柔らかく腰に触れながら、啓志郎は噛んで含めるように説明する。施術中に啓志郎が黙っている事はほとんどない。竜次の痛みや状態を確認しながら、力加減を調節する。
施術台にうつ伏せになっての施術が多いので、表情で竜次の様子を判断できないから、細かく確認してくるのだろう。

竜次もまた、低くて穏やかな声で訊かれる事に、素直に答える。顔が見えないので、余計に話しやすい。そのうえ、啓志郎の大きな手は柔らかくて温かい。痛みのある部分に置かれているだけで、呼吸は楽になり痛みも治まる。
近藤のいる整形外科でも治療を受けているのだが、ここまで痛みを忘れる状態にはならない。

やはり、啓志郎の手は自分の体と相性がいいと思う。
「竜次。寝てへんやろな」
「押忍」
声をかけられ、返事をする。あまりの気持ちよさに、またうとうとしていたようだ。

「座って。ヒザ診るさかい」
「押忍」
ゆっくり体を起こして座る。パンツを巻くってヒザを出す。竜次のヒザには、肌色のテープが幾重にも巻いてある。

「うん。これでええ」
ケガをしたヒザの負担が少なくなるよう、なるべく早く回復するよう、啓志郎から教えてもらったのはテープでヒザを固定するテーピングの方法だ。
手順や場所を間違うと効果がないので何度も練習させられたが、今日のは及第点のようだ。

「いっぺん憶えたら楽やろ?」
「押忍。階段の上り下りでも、立ちっぱなしでも、ヒザを意識せんようになった」
啓志郎は竜次の前にヒザまづき、足を持つ。
「足の可動域を診るさかい、呼吸を楽にして」

くるぶしとヒザの裏を手で支えて、ゆっくりと動かす。まずは上下左右に、だんだん動きを大きく。
「痛いか?」
「いや」
痛みはない。ミシミシという湿った音も、パキパキという乾いた音もしない。動きはなめらかだ。

「今度は股関節」
ヒザで円を描くように回す。
「仰向けに寝て」
施術台に仰向けになる。啓志郎は竜次のヒザを支えて、しだいに大きく股関節を回す。もともと空手をしていた竜次の股関節は柔らかく、180度開脚もできる。

「ヒザ、伸ばして」
言われるがまま、ヒザを伸ばす。竜次の足は天井に向かってまっすぐ伸びる。
「ゆっくり胸に近づけていくさかい。痛かったら言(ゆ)え」
「押忍」
啓志郎は竜次のくるぶしを持って、ゆっくりとヒザに近づけていく。ケガをしたあと、こんなに大きく足を開いたのは初めてだ。

だが思ったような痛みはない。事前に十分、啓志郎がヒザ周辺を暖めておいてくれたからだろうが、ケガも徐々に回復しているのだろう。
「痛ないか?」
「押忍。前より楽に開脚できる」
「そうか」
明るい声で言う竜次に小さく頷いて、啓志郎は手を離す。

「息を吐きながら、ゆっくり戻して」
「先生。俺、もっとできるて。大丈夫や」
ヒザの回復に手ごたえを感じていたとはいえ、これほど楽に開脚できるとは思っていなかった竜次は、嬉しくて興奮気味にそう言う。

「アホか」
だが、啓志郎は厳しい声で抑止をかける。
「そない、いっぺんに良うなるか」
「せやかて、楽になってる。痛みもない」
自分の痛みだ。自分が一番良く分かっている。納得できない竜次は食い下がる。

「竜次」
低く呼ばれる。目を見れば、厳しい色を宿している。
「今日はここまでや。自己判断で勝手なコトしたら、承知せえへんで」
高圧的な言い方に、鼻白む。
「竜次、返事」

啓志郎の目は竜次の反論もいい訳も許さない、強い光を発している。この強い目を見ると、自分が啓志郎に協力してもらう条件は絶対服従だったと、思い知らされる。
「押忍」
しぶしぶ、竜次は頷いた。




  2013.11.06(水)


    
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