回復の経過を報告に行った郷拳会の道場で、たまたま居合わせた学生チャンピョンと実戦形式の試合をした。現役のチャンピョンを相手にして一歩も引かないどころか、圧勝した。思いどおりに体が動き、腰もヒザも痛みを覚えなかったのに、道場を出たとたんヒザの痛みで歩けなくなってしまった。

竜次の苦しみように驚いた谷本は、ヒザを冷やしながら急いで近藤の病院まで連れてくる。ヒザの状態を診た近藤は、痛み止めの注射をし絶対安静を言い渡した。
・・・くそっ。
診察が終わり、待合室のイスに座って天井を仰ぐ。竜次は今日の出来事をひとつひとつ思い出す。あんなに思いどおりに体が動いて、どこにも痛みはなかったのに、どうして道場を出たとたんに痛み始めたのか。

いくら考えても分からない。分かるのは、少しずつ登り始めた復帰への階段を、一気に転げ落ちてしまった事だけだ。
ヒザの状態を診た近藤はいつになく厳しい顔で、しばらくは絶対安静だと告げた。しばらくというのは、何日間くらいだろうか。またトレーニングを再会できるのだろうか。

・・・くそったれが。
それよりも、こんな自分の姿を見て啓志郎はどう思うだろうか。それを考えると、つらい。軽率な行動で最悪の結果を招いた事を、竜次は悔やんでいる。親身になって復帰の協力をしてくれた啓志郎に、会わせる顔がない。

「はあ」
目を閉じて、ため息をつく。と、隣に人の気配を感じる。
「おい」
低い声に総毛立つ。啓志郎だ。一番会いたくない、会わせる顔がないと思っていた啓志郎本人が、隣に座っている。

逃げてしまおうか。本気で思う。だがガッチリ固められたヒザでは、速く歩けない。逃げてもたちまち追いつかれてしまう。背中に嫌な汗が流れる。
「竜次」
名前を呼ばれる。抑えた声だ。しかし、十分に啓志郎の怒りは伝わる。
「谷本師範代から、聞いた。おまえ、学生相手に試合したそうやな」

ゆっくりとした口調が、かえって恐ろしい。
「なんでや?」
体の回復状態を谷本に報告したかったから、生意気な若造に挑発されたから、久しぶりに空手道場の熱気に触れて体が熱くなったから。
頭の中ではいくつもの理由がうかぶ。だが、それを言葉にはできない。何を言っても啓志郎を納得させるのは無理だと分かっている。
竜次は天井を仰いだまま、唇を噛む。

「・・・ま、ええわ」
そんな竜次を横目で見て、啓志郎はため息をつく。
「どんな理由であれ、俺の言いつけを破ったんや。覚悟はできてるやろな」
「か、覚悟て」
大仰な言葉に、慌てて目を開く。啓志郎の横顔は、想像した以上に厳しい表情をうかべている。

「俺はもう、おまえの復帰を手助けせえへん」
一瞬、切れ長の目で竜次を見て、啓志郎は立ち上がる。
「ほな」
「ちょっ、先生」
行こうとする啓志郎の手を掴んで引き止める。

啓志郎は掴まれた自分の手と竜次の顔とを交互に見る。その目には何の感情もない。
「俺が軽率やった。謝る。もう二度とあんたの言いつけを破るようなコトはせえへん。絶対服従する。誓う」
必死で手を掴む。
「せやから、行かんといてくれ」

「離せ」
低く冷たい声だ。
「イヤや」
首を振って、抵抗する。ここで手を離したら、もう二度と啓志郎は会ってくれないかもしれない。それほど啓志郎から感じる怒りは激しく深い。

「あんたの助けなしで、どうやって復帰できんね」
「知るか、ボケ」
とうとう手を振り払われる。再び掴もうと伸ばした手は、しかし啓志郎の厳しい目に阻まれる。
「やっぱり、おまえみたいなアホなガキに、情けをかけるんやなかった」
吐き捨てて、切れ長の目に悲しい色をうかべて、啓志郎はその場を立ち去る。その背中が見えなくなるまで、竜次は見送る事しかできなかった。



叱られ罵倒される覚悟はあった。厳しい目で見られても仕方がないと思っていた。
だが啓志郎の目には、悲しい色がうかんでいた。
・・・俺はなんてアホなコトをしたんや。
その目を見て、啓志郎がどれだけ自分の復帰に本気で取り組んでいたかを、今さらながら思い知らされる。

とにかく、このままでは本当に復帰への道は閉ざされてしまう。もう一度啓志郎に会って、謝り倒して、何としてでも助けてもらわねばならない。
竜次は近藤の病院から帰るその足で、啓志郎の整骨院に向かう。すでに日も落ちて、辺りはうす暗くなっている。診療時間の終わったわに整骨院は、玄関にカーテンが引かれ、部屋の灯りも消えている。

呼び鈴を押す。応えはない。中の様子を伺うが、人のいる気配はない。どうやら啓志郎は帰ってしまったようだ。
啓志郎の自宅は整骨院のある建物と同じマンションだと、谷本から教えてもらった。
建物の下から部屋を見上げるが、灯りは点いていない。暗いままだ。

・・・部屋にも、いてへんのか。
例え今は外出していても、絶対帰ってくるはずだ。啓志郎が帰ってくるまで待つつもりで整骨院の前に立つ。
秋の日暮れは早い。あっという間に暗くなり、道路に街頭が灯る。痛み止めの効果が切れたのか立っているのもつらくなり、竜次は玄関脇にあるベンチに腰かける。
・・・俺は、なにをしてんのやろな。
痛み始めたヒザをさすって、自嘲気味に笑う。

プロ格闘家として生きるためには、肉体的にも精神的にも常に緊張とプレッシャーを強いられる。ただ黙々と己の体をトレーニングで追い込んで、限界まで研ぎ澄まして、それでも思ったような結果は出ない。
プロとして試合をしても、もらえる賞金はスズメの涙。生活するためには、他にバイトで稼がなくてはならない。
ケガに苦しみ、年齢に因る衰えに苦しみ、自分より若い世代の台頭に苦しみ。

楽しい事はひとつもない。自分で自分の心と体をいじめ抜いている。
・・・せやから腰もヒザも、ヘソ曲げたのかもしれんな。
にが笑いして、大きな手でヒザをさする。
・・・けど、もう少し、つき合(お)うてくれ。俺はまだ、満足してへん。もっと強なりたいんや。
ヒザをさする手に、水滴が落ちる。雨だ。湿った風に混じって、雨粒が舞う。
竜次はその場を動かない。ほんの髪に降りかかる程度の雨が、だんだん強くなっていく。

どのくらいそうしていただろうか。
ふと見ると、道の向こう側から背の高い男が歩いてくる。降りしきる雨の中カサもささずに、ふらふらよろよろと、おぼつかない足取りだ。
こちらに向かって歩いてくる男に目を凝らせば、啓志郎本人だ。通りを渡ってきた啓志郎は、足がもつれて壁に手をつく。

「先生」
立ち上がり、傍に寄る。声をかければ顔を上げるが、竜次と分かって眉間にシワを寄せる。
「大丈夫か?」
「触んな」
硬い声で竜次の手を払う。その呼気には、アルコールが含まれている。

「あんた、飲んでんのか?」
街灯の弱い光のした、よく見れば啓志郎のほほには赤みが差している。目にも酔いが含まれている。
「放っとけ、アホ」
吐き捨てて歩きだしたひょうしに、体がよろける。

「おい」
腕を掴んで体を支える。どのくらい飲んだのか知らないが、啓志郎はまともに立っていられないくらい酔っている。
「こんだけ酔うてて、よう帰ってこれたな。なんで、こんなになるまで飲んだんや?」
「うるさい! 誰のせいやと」
強く吐かれた言葉は、しかし途中で止まる。啓志郎は横を向いて、手で自分の口を覆う。

「俺、か?」
訊いても答えず、乱暴に手を振り払う。
「俺が、原因か」
「知らんわ」
横を向いたまま、瞳だけで竜次を見る。

「おまえはこんなトコで、なにしてんね?」
「あんたと話がしたくて、待っとったんや」
「話なら、とうに終わってる」
「もういっぺん、聞いて欲しいねん」
「しつこい」
想像以上に啓志郎の態度は頑なだ。まったく聞く耳を持たない。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。

「せやけど、」
勢いこんで続けようとした言葉の代わりに、盛大なくしゃみが出る。長い時間雨に打たれたので、すっかり体が冷えている。

「・・・ったく」
眉間にシワを寄せたまま、厳しい声で言う。
「あんだけ体を冷やすなて言うてんのに、聞かん。まだ実戦は早いて言うてんのに、それも聞かん。自分勝手なコトして、ヒザをいわして(=痛めて)。よう俺の前に顔が出せたな」

「押忍」
啓志郎の言う事は、いちいち尤もだ。反論できない。辛らつな言葉に、まだ怒りが解けていないのを実感する。
大きな体を小さくして頭を垂れる竜次に、啓志郎は大きくため息をつく。
「タオルくらい貸したるわ。不本意やけど」

「え」
意味が分からず、啓志郎の顔を見る。
「ついて来(き)い」
啓志郎は憮然とした表情のまま、アゴをしゃくって建物の中に入っていった。




  2013.11.13(水)


    
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