啓志郎と近藤の指導のもと、竜次の体は驚くべき早さで回復していく。梅雨明けしてすぐに啓志郎を紹介され、反発を覚えながらも竜次は黙々と治療に専念したが、その結果が如実に現れている。
啓志郎は相変わらず、油断をするなとか焦りは禁物とか、厳しい事ばかり言うが、スポーツドクターである近藤は感嘆の声をあげる。

近藤によると、ヒザのケガはほぼ完治。普通に生活するには何の支障もないほど回復しているそうだ。さすがに鍛えた体は違うと、しきりに感心していた。
ガンコでやっかいな腰痛も、電気治療と啓志郎の施術、テーピングによって楽になっている。コルセットなしでは生活できなかったはずが、今ではコルセットをしなくても痛みはない。夜もグッスリ眠れる。

竜次自身、自分の体が元に戻りつつあるのを実感している。それは啓志郎にも分かっているはずだ。
しかし、本格的なトレーニングを始めていいとは言わない。最近になって、ようやく器具を使った筋トレを制限つきで解禁したくらいだ。

啓志郎に対して異を唱えるのはもちろん、意見を述べたり理由を訊くのも許されない。不満げな表情をするだけで、とたんに厳しい目で睨まれる。
・・・くそっ。ドSが。
それでも投げ出さす黙って啓志郎の指示に従うのは、それが復帰への近道で唯一の道だと分かっているからだ。

・・・気にいらんけど、先生の言うとおりにしてたら体が治ってきてる。それに、先生の手、気持ちええしな。
施術台に横になって、啓志郎の手に触れられると、不思議と痛みを忘れる。啓志郎の低く穏やかな声を聞くと、自分も落ち着いた気持ちになる。
いつもは厳しい表情の啓志郎だが、時に優しい目をする事もある。
竜次は、射すくめ威圧するような強い光を発する目と、静かに穏やかな光を宿す目と、どちらの啓志郎の目も好きだ。

絶対服従と言われ、普通なら腹を立てて頑なになるところだが、それが啓志郎相手だと言う事をきいてしまう。
自分でも不思議でならない。

夏の盛りも過ぎ秋の気配を感じるようになった頃、竜次は郷拳会空手道場に顔を出す。啓志郎を紹介してもらった手前、中郷に途中経過を報告しなければならない。建物の中に入り来意を告げるが、あいにく中郷は留守のようだ。
「ほな、谷本師範代は、いてはりますか?」
「はい。師範代なら道場にいてはります。しばらく待たれます?」
応対した女性事務員が答える。ちょうど谷本は道場で指導しているようで、会うにはしばらく待たねばならない。
「見学しても、ええですか?」
同じ待つのならば、道場で待つのもいい。
「はい。どうぞ」
許可をもらって、奥の道場へ。

近づくに従って、廊下まで熱気が伝わってくる。
「押忍。失礼します」
一礼して中に入る。広い道場の中には、学生とおぼしき男女が数人、谷本から指導を受けている。竜次は邪魔にならないよう、隅に正座して稽古を見る。

今やっているのは組手の稽古だ。実戦さながらに二人一組で対峙している。見ればほとんどの者が有段を示す帯を締めている。レベルの高い攻防だ。
キレのある動き、気合のこもった声、空気を切り裂く音、床に伝わる振動、飛び散る汗の匂いまで感じられる。
道場内の若い熱気にあてられ、竜次の体もまた熱くなっていく。

「ここまで」
「押忍! ありがとうございました!」
谷本の号令で、指導は終わったようだ。一斉に動きを止めて頭を下げる。見ていて好ましい規律正しさだ。

「今井。来てたんか」
隅に座る竜次に気づいて、谷本が手を上げる。
「押忍。お久しぶりです」
竜次の名前と姿に、学生の間から歓声があがる。

「やっぱり。格闘家の今井竜次さんですよね」
「本物はカッコええなあ」
「握手、握手してください」
立ち上がった竜次を、あっという間に取り囲んで握手攻めにする。彼らにしてみると、この道場出身でプロ格闘家として華々しい戦績を残した竜次は、憧れの存在なのだろう。

尊敬と憧憬の混じった目で見られて、竜次も悪い気はしない。
「おまえら、もうそのくらいにしとけ」
師範代である谷本にたしなめられて、ようやく離れる。
「今井、かんにんな。学生言うても、まだまだ子どもで」
「いや。かましません」
まんざらでもない顔で答える。

「師範代。この人らは大学生ですか?」
「ああ。大学のリーグ戦で上位を狙える連中ばかりや。学生チャンピョンかていてるで。・・・おい、玉城(たまき)」
「押忍」
呼ばれて長身の男が前に出る。他の学生が竜次に群がっているのを、一歩引いて冷静な目で見ていた男だ。

「こいつが今期の組手のチャンピョンや」
「玉城です」
油断のならない目で挨拶する。
「今井や」
言葉にしなくても、相手の気持ちが分かる場合がある。今の玉城がそうだ。冷たい目で竜次を見据え、全身から対抗心を発している。

「今井さんは、ヒザをケガしたて聞いてますが」
「ああ」
「もうええんですか?」
冷静な口調の裏に、自分に対するあざけりの気持ちが隠れているのを、竜次は敏感に感じとる。
手負いの年寄りが、プロ格闘家がどれほどのものかと、密かに値踏みをしている。

「もし良ければ、指導してもらえませんやろか」
「俺が?」
「玉城。失礼やぞ、先輩に向かって」
竜次を知り玉城を知る谷本が、すぐに割ってはいる。なるほど、玉城という男は学生チャンピョンになるだけあって、自分の力に自信があるのだろう。不遜な顔つきでうすら笑いをうかべている。

「・・・そうですね。大先輩のケガ、ますます悪化させたら、アカンですもんね」
明らかに挑発している。竜次の名前は郷拳会に鳴り響いている。その竜次を前にして、黙っていられなくなったのだろう。
「おもろい、ガキやな」
竜次もまた、若く未熟な男の挑発を見過ごせるほど枯れてはいない。口元を歪めてニヤリと笑う。

「アカンて。なに考えてんね」
「師範代。今日は俺の回復状況を報告しよと思て、来ました。ちょうどええわ」
竜次と玉城のにらみ合いに、谷本は勝手にせえと小さくつぶやくしかなかった。



道着を借りて、入念に体をほぐす。腰にもヒザにもテーピングを施しているので、痛みはない。
「試合形式にのっとって、時間は3分。延長なし。どちらかが戦意喪失、あるいはそれと同等の状態になったと判断したら、そこで終了する。ええな」
同時に頷く。

「始め!」
審判は師範代の谷本が務める。始めの合図と同時に、玉城は間合いを詰めて蹴りを出す。長身でガッチリとした体つきをしているわりに、動きが速く足さばきも軽い。長い足と軽快な足さばきで対戦相手を消耗させて、スキをついて決定打を狙う。そんな戦い方をする男だと判断する。

竜次は半身にかまえて、玉城の足をさばく。しなやかに攻撃してくる玉城の足は、相当やっかいだ。当たれば大きなダメージを負うだろう。
・・・当たれば、な。
だが、当たる気はしない。本格的な対戦は、ヒザをケガしてから初めてだ。空手の試合も数年ぶりとなる。

空白期間は長く、体重も落ちているというのに、負ける気がしない。相手の早い動きに合わせて、体が自然に動く。玉城の目の動き、呼吸、鼓動すら、竜次には手にとるように分かる。
もって1分と値踏みしていた玉城は、決定的な攻撃ができないのを不思議に思い始めているはずだ。手数は多いのに、竜次の体力を削いでいる気配はない。玉城の表情に戸惑いが混じる。

・・・ほな、ちょっとだけ、遊んだろか。
息を吸い、腹の下に力をこめる。瞬きをする間に間合いを詰め、床を踏んで最初の一撃。
「うっ」
呼吸させず、次の一撃。とどめの一撃。

「それまで!」
周りで見ていた学生や、玉城自身も、どうして谷本が試合を止めたのか、一瞬理解できなかったはずだ。だが、止められた次の瞬間には、玉城はヒザからくずれ落ちる。
郷拳会に所属していた頃、竜次が最も得意としていた三段突きが、ものの見事に決まったのだ。

道場内は静まりかえる。有段者揃いのメンバーの中でも、竜次の攻撃を見切った者はそういないはずだ。対戦相手の玉城にいたっては、ヒザをついたまま呆然としている。
「アホか。子ども相手に」
「押忍」
谷本に強く言われ、素直に頭を下げる。

まだ何が起こったのか混乱している玉城に手を貸して立たせ、開始位置まで戻って礼をする。
「かんにんな」
「押忍・・・ありがとう、ございました」
青い顔でつぶやくと、腹を押さえて他の学生の所に戻る。

「今井。体のキレが戻ったようやな」
玉城の後ろ姿を目で追った谷本が、竜次に笑いかける。
「さすがやな。玉城相手に、一歩も引けをとらん」
「押忍」
玉城は現役の学生チャンピョンだけあって、動きも速く蹴りも重い。その玉城を相手に一歩も引けをとらないどころか、ほんの1回の攻撃だけで沈める事ができた。

思いどおりに体が動くようになった事、実戦的に体を動かしても痛みがない事、生意気な若造を黙らせた事。どれもが竜次を上機嫌にする。
「このぶんやと、ホンマに復帰できるかもしれんな」
「俺は最初からそのつもりですけど」
明るい声で笑う。

「ヒザは? 強く踏み込んだけど、なんともないんか?」
「押忍。テープでガッチリ固定してますし」
攻撃に集中するあまり、ケガをした利き足のヒザに負担をかけた。が、痛みはない。
「あの厳しい先生の言いつけ、ちゃんときいてますさかい」
「ホンマか?」
谷本と並んで道場から出る。

そのとたん、竜次のヒザに激痛が走る。
「ぐっ」
「どないした?」
立ち止まった竜次の顔を、谷本は覗き込む。竜次の顔には脂汗が流れている。

「今井!?」
「ヒザ、俺の、アカン」
熱く痛み始めたヒザを抱えて、竜次はその場から一歩も動けなくなっていた。




  2013.11.09(土)


    
Copyright(C) 2011-2013 KONOHANA SYOMARU. All Rights Recerved.
inserted by 2nt system