優の通う弓道場は、市内にある大きな武道館に隣接している。弓を射る場所は5人が並んで立てるくらいで、的までは約28mと、近的(きんてき)競技の広さとなる。初心者から段持ちの上級者までが練習しているそうで、曜日によっては教室も開かれている。

その中で優が参加しているのは、ある程度弓道経験のある大人ばかりの同好会だ。和桜や優のように学生時代に弓道をしていて再開した人もいれば、ずっと続けていた人もいる。年代も性別もバラバラの人たちが週に1回、決まった曜日に仕事が終わった時間帯に集まって練習していると、優は説明する。

「せやさかい、和桜も気軽に考えたらええねん」
待ち合わせをして、優の運転する車で弓道場に向かいながら、話を聞く。
「弓も矢も、他の道具も借りれるし。弓道経験もバラバラやさかい、個人の技量もマチマチでな」
前を向いて話す優の横顔を、瞳だけで見る。

高校の同級生だった藤枝の急逝を受けて、有志が集まった偲ぶ会で再会した優に誘われるまま、部屋に付いて行った。
同じ弓道部員として親しくしていたが、高校卒業後はまったく連絡を取らず、藤枝が離婚していた事も優が地元に帰って来ていた事も和桜は知らなかった。

優の部屋で藤枝との思い出話やお互いの近況を報告しあううちに、顔が近づいて、唇を重ねていた。抗いもせず、優の手に身をゆだねていたが、結局、優は眠ってしまった。
残念な気持ちが半分、ホッとしたのも半分というのが、正直なところだ。優の手を拒まなかったのは、20年以上も連絡を取っていなかった藤枝の突然の死という、にわかには受け入れ難い事実を、誰かと慰めあいたかったからかもしれない。
その相手が、たまたま優だった。それだけの理由だ。

自分を抱きしめて眠る優の下で、和桜はため息をつく。優が欲しかったわけではない。優もそうだろう。藤枝に対する甘くて苦い思い出を共有する自分に会って、つい触れてしまった。その程度の衝動だ。
寝息をたてる優の重い体から這い出ようともがくが、強く抱きしめられていて動けない。力づくで抜け出ようと肩に手を置いた時、
「…香太郎」
優がつぶやく。

声の響きの哀しさと優しさに、和桜の動きはとまる。
「ホンマに」
優の頭を胸に抱く。艶のある黒髪を指で梳く。耳に触れ肩に触れ、背中に触れる。ゆったり抱きしめる。
優の背中は、想像していたよりもずっと広くて温かかった。

今、ハンドルを握る優の横顔からは、先日の夜の熱は微塵も感じられない。唇を重ねた事や抱き合って朝まで眠った事などなかったかのように、普通に話している。
まったく憶えていないのか、酔った過ちと忘れてしまいたいのか。和桜には分からない。が、優が何も言わないのであれば、和桜からわざわざ蒸し返す必要もない。

「着いたで」
車を停め、荷物を持って建物の中に入る。
「コッチや」
受付を通って奥へ。和桜もこの武道館に弓道場があるのは知っていたが、実際に中に入るのは初めてだ。優のあとをついて、更衣室に行く。

「弓道衣は俺のを貸したる。足袋は?」
「用意でけへんで。白い靴下持って来た」
「ん、まあ、今日はそれでええやろ」
弓道の練習時や試合の時には、白筒袖の上衣に袴の弓道衣と白足袋を着用するのが決まりだ。

「弽(ゆがけ)は? あるか?」
弽とは、弓を引く時に右手の親指を痛めないようにするプロテクターのような物だ。自分の手の大きさや技量に合った物がしっくりくる。射技にも大きく関わる大切な物だ。
「いや」
「ほな、借りたらええ」

着替えるうちに三々五々と同好会の会員が集まってきたようで、優は元気な声で挨拶をしている。
若者からかなりの年配者まで、さまざまな年代の人が集まってくるなかで、優は誰にでも気さくに声をかける。社交的で面倒見のいい性格は、高校時代から変わっていない。

弓道衣に着替えたら弓道場へ出る。弓を射る場の床は磨き上げられ、正面にはライトアップされた的が並んでいる。
都会の真ん中であるのを忘れさせる程の厳かな空間に、思わず和桜の背筋は伸びる。
「和桜。コッチに」
まずは同好会の会員と顔合わせをする。
「こちら、汀和桜さん。俺の高校の同級生です」
「汀和桜と申します。高校卒業以来、弓には触れていませんので初心者同然ですが、よろしくお願いいたします」
優の紹介のあと、軽く頭を下げて挨拶すれば、他の会員も挨拶を返してくれる。

「和桜、いや汀さんは俺の同級生で。再会して即、この会に勧誘しましてん」
「梅上くん、ナンパしたんか?」
年配の会員から、からかうような声がかかる。
「かなわんなァ」
照れたように頭をかく優に、明るい笑い声がおこる。いい雰囲気の集まりだ。

挨拶も終わって、準備運動を始める。
弓を引く動作は、静かで動きが少ないようだが、見た目以上に筋力を必要とする。そのため、事前に十分体を温め筋肉をほぐしておく必要がある。
準備運動が終わっても、すぐに矢を射るわけではない。初心者は弓だけを持って基本姿勢である執弓(とりゆみ)の姿勢と体配(たいはい)、射法八節から学ぶ。和桜のように長らく弓道から離れていた者もそうだ。

体配とは本座(ほんざ)と呼ばれる控えの場から射位(しゃい)と呼ばれる矢を射る場に移動するまでの流れを、射法八節とは矢を射るまでの動作を八項目に分けて解説したものを言う。
弓道とは、ただ弓で矢を射って的に中(あ)てるだけの競技ではない。体配から射法八節と一連の動作がよどみなく流れてこそ意味がある。

「憶えてるか?」
「どうやろな」
「ほな、俺の見とき」
頷いて、一歩下がって優の動作を見る。

体配と射法八節においては、一呼吸一動作が基本だ。静かに、だが力強く優は弓を引く。背筋を伸ばして安定したその姿は、様式美を体現している。長身で手足も長いので、余計に映える。
何度か優の動作を見たあとで、和桜もやってみる。憶えているつもりだったが、見るのと実際にやるのとでは勝手が違う。

「和桜。ココはこうや」
まごつく和桜に、優は手を取って教えてくれる。立ったり座ったりの動作の時には、背中に手を当てて補助したり、弦を引く右手、馬手(めて)が下がっていれば脇に手を添えて矯正する。
…そういえば、高校の時もこうして優が教えてくれたんやったな。
元から弓道経験者だった優が、まったくの初心者で弓道部に入ってきた自分に、丁寧に指導してくれた事を思い出す。

その時も、寄り添うようにして立つ距離感に戸惑いを感じはしたが、嫌ではなかった。こうして並んで弓に触れていると、何のわだかまりもなかった高校時代に戻ったかのような錯覚におちいる。

その日は同好会の会員との挨拶と体配、射法八節を学ぶに留まり、実際に矢を射る事はなかったが、それなりに充実した時間がもてた。帰りもまた優の車で送ってもらう。
「どうやった? 久々の弓道場は?」
「懐かしかったな」
自分の左手を見ながら答える。弓を持つ方の左手、弓手(ゆんで)には弓の感触が残っている。
「強引に誘てしもて、どうかと思たけど。おまえ、楽しそうやったな」
「ああ」
社交辞令ではない。

頷く和桜の顔を横目で見て、優は小さく笑う。
「なんや?」
「いや。楽しかったんやったら、もっと楽しそうな顔したらええのに。相変わらず、表情が乏しいヤッちゃ」
高校の時も同じ事を言われた。決して非難しているわけではないし、不快に感じているわけでもない。優は自分の思った事を、正直に告げただけだ。

「ホンマやな」
そんな優に、和桜も素直にほほを緩める。
「うん。べっぴんさんは笑(わろ)た顔が一番。どうや、続けてみるか?」
「せやな」
弓道場の厳かな空気の中にいると、身の引き締まる思いがする。それに、弓道を通じて再び優と関わりが持てる。

「良かった」
和桜の返事に、優は嬉しそうに笑う。
「ほな、いろいろ道具揃えなアカンな。次の日曜、一緒に買いに行こか」
上機嫌でそこまで言って、ハッと言葉を切る。
「かんにん。俺ばかり浮かれてしもて。休みの日は用事があるんと違うか?」
「いや」
小さく首を振る。平日は職場と自宅との往復で、休日に逢う相手もいない。

「ホンマか? デートの約束とか、ないんか?」
訊いて、チラリと見る。どういう意図があって、そんな事を気にするのだろうか。
「そんなん、ない」
「おまえ、結婚は? 恋人とか、いてへんのか?」
「独身やし、恋人も今はいてない」
優の真意は分からないが、隠しだてするような事でもない。正直に答える。

「へえ。意外やな」
そう言う優の声が、和桜には弾んで聞こえる。
「せや。時間あるんやったら、うちまで来(け)えへんか。弓道師範のDVDあるし。それ見て勉強したらええ。それに、」
そこで言葉を切る。
何を言いよどむのか、不思議に思って顔を見る。

優と目が合う。すぐに目を逸らして前を見る優の目の奥に、わずかに情熱の色が見えたような気がする。再会した夜に唇を重ねた時と同じ、情熱の色だ。
言葉の続きを促す事なく、そのまま二人おし黙ってマンションに戻る。

駐車場に車を停め、荷物を持っておりる。肩が触れるか触れないか、微妙な距離で二人並んで部屋まで上がる。
…もし、またもう一度。
エレベータの中で、和桜は考える。
…もう一度、優に抱きしめられたら。僕は拒むのやろか。

緊張と不安と、期待とでいつもより心臓の鼓動が早くなる。だが、顔にはいっさい表さない。冷静で整った顔のままだ。
部屋の前まで来る。荷物が多くてカギを出すのに手間取る優に、黙って手を貸す。荷物を受け取る時、わずかに指先が触れる。優の手にもまた、熱を感じる。

開錠し、ドアを開ける。
「ただいま」
優は言って、にが笑いする。

すると、
「おかえりなさい」
リビングのドアが開いて、中から若い男が出てきた。




  2014.04.30(水)


    
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