藤枝に気持ちを告げられたら優は断らない。
自分の気持ちを隠して藤枝の背中を押した時に思ったとおり、優は藤枝の気持ちを受け入れて恋人同士となる。
和桜と優と藤枝と、表面上は仲のいい友だち同士のままだが、その関係は複雑になっている。優と藤枝は恋人で、和桜は優への気持ちを隠している。和桜の想いを、藤枝はもちろん優も知らない。

告げるつもりはないが、消えない想いを秘めたまま季節は巡る。
いつしか和桜の背丈は新入生の時には見上げる程だった優と同じくらい伸び、弓道部の中心人物として校内でも知らぬ者とてない存在となった。

藤枝もそうだ。和桜と藤枝が並んで弓を引く華やかな姿は、男ばかりの校内では特に人目を惹き、和桜は桜姫、藤枝は藤姫と呼ばれ偶像視されるまでになっていた。
同性、異性に関係なく熱い視線で見られ、頻繁に誘いを受ける。優への想いを早く消したくて、ひと時でも忘れさせて欲しくて、和桜は簡単に誘いにのる。

和桜が美しく磨かれていくのに気づいていながら、優は何も言わない。優の自分に対する気持ちはその程度のものだったのかと、思い知らされる。
憎らしい。だが、どうしても想いは消えない。

複雑な想いを秘めたまま、最後の大会を終えて部活動から引退する日。誰もいない部室で自分の道具を片づけていると、ふいにドアが開いて優が顔を見せる。
「ココにおったんか」
「ああ」
優は藤枝と先に帰ったはずだ。忘れ物でも取りに戻ったのだろうか。

「おまえ、香太郎と帰ったんと違うんか?」
背中を向けたまま訊けば、
「俺の荷物の中に、おまえに借りっぱなしやった下掛けがあったんや」
「下掛けが?」
下掛けとは弓を引く右手を守る弽(ゆがけ)の下に着ける手袋のような物だ。木綿製が多く、汗や皮脂などの汚れが弽につかないようにする目的でつける。
優に言われて、以前貸したのを思い出す。

「返しとくわ」
「ああ」
優の方に向き直る。受け取ろうと手を出すが、優は自分の手に持った下掛けを見てフッと笑う。
「こないボロボロになるまで使(つこ)て」
元は真っ白だった下掛けは、使い続けるうちにだんだんと汚れていく。何度も洗って使うが、一部が変色したり、うすくなったりする。
すっかりボロボロになった下掛けを見て、和桜は真面目に弓道に取り組んだこの3年間を思い出す。楽しい事、苦しい事、つらい事、嬉しい事。本当にいろんな事があった。
そして、どの思い出にも優と藤枝は深く関わっている。
「楽しかったな」
優がつぶやくように、決して楽しいばかりではない。

「せやな」
だが、苦く笑って同意する。
「ホンマに楽しかったんか? 相変わらず感情表現の乏しいヤッちゃ」
「ええやないか」
小さく笑う和桜に、優は下掛けを渡す。

「和桜」
「なんや?」
呼ばれて顔を上げる。すぐ目の前に優の顔がある。近いと思った瞬間、ゆったり抱きしめられている。
「おおきに、和桜」

耳のすぐ後ろで、優の声がする。抱きしめられた腕から、胸から、体全体から、優の熱が伝わってくる。
「俺はおまえがおって、ホンマ楽しかった」
だが優の熱は、友情の熱でしかない。
「ホンマ、おおきに」
言って、さらに強く抱きしめる。

たとえ友情や感謝の気持ちを表していると分かっていても、優から抱きしめられると冷静でいられなくなる。
ひとりでに心臓の鼓動は早くなり、呼吸も苦しくなる。
「あ」
小さく、声が漏れる。

優が顔を覗き込む。
「おまえ…」
心の奥底に隠している優への想いを悟られそうで、和桜は目を閉じる。と、温かくてやわらかい何かが、唇に触れる。

うすく目を開ける。すぐそばに、ほほを上気させた優の顔がある。視線が重なって、目を閉じて。
「ん」
再び、唇が重なる。
…ああ。今、優とキスしてるんや。
幸せで、胸が熱くなる。もっと深く強く触れたくて、腕を優の肩に。

「あ」
乗せようとして、正気づく。優は藤枝の恋人。隠しとおさなくてはいけない想いの相手だ。
「アカン」
顔を伏せて、震える声で言う。

和桜の声に、優は動きをとめる。腕を緩めて、一歩離れる。
「…かんにん」
つぶやいて、そのまま部室から出ていく。

優に触れられた体が熱い。唇が、熱い。自分の正直な想いを口にできたら、どんなに楽になるだろう。
だが、決して告げてはいけない。
「うう」
和桜は自分の口から優への想いがあふれないように、手で口を覆って歯をくいしばっていた。



部活動を引退したあとは、本格的な受験シーズンとなる。それぞれ別の分野へ進もうとしている和桜と優と藤枝の3人は、話す事はおろか、顔を合わせる機会もほとんどなくなっている。
優にとってあのキスは、時間が経って慎重に和桜は考える、あのキスは間違いだったと。真面目に取り組んでいた部活動の引退で、正常な精神状態でなかった優は、友情の延長として抱きしめて衝動でキスをしたのだと。

そうでなければ、あんなに何事につけてもハッキリと言う優が、聞こえるか聞こえないかの声で”かんにん”と言うわけがない。自分の行為を、謝るわけはない。
優が自分に特別な感情を持っていたとしても、友情の枠を超える事はない。特別な友だち、親友の位置づけだ。
だから、優にとってあのキスは間違いで、なかった事にしたいのだと。そう考える。

大学入試の終わった直後に卒業式を迎える。春まだ浅い3月上旬。空はどこまでも高く、気の早い梅がちらほら咲いている。その下を、和桜はゆったりと歩く。学校内のそこかしこでは、男子校ならではの荒っぽい方法で在校生から卒業を祝う行事が行われているが、その喧騒をさけるように、ひとり校庭を歩く。

自然と足が向かう先は、やはり弓道部の部室だ。ドアを開けて中に入る。誰もいない。大きく深呼吸をする。懐かしい匂いがする。和桜は顔を上げて、飾ってある数々の賞状やトロフィーを見渡す。そのいくつかに自分や優、藤枝の名前がある。一緒に写った写真もある。
腕を伸ばして、写真を手に取る。写真の中で自分は真面目な顔を、優は笑顔を、香太郎はおどけた顔をしている。
こんな風に、きらめき楽しかった日は、もう戻ってこない。胸が、小さく痛む。

写真に写る優の顔を、そっと指でなぞる。一瞬だけ触れた優の唇は、情熱をはらんでいた。あのキスの意味を、訊いてみようか。
卒業をしたら、別々の大学に進学する事が決まっている。年を追うごとに会う回数は減って、年賀状やメールで細々と繋がるだけになって、いつか連絡は途絶えてしまうだろう。

今日が最後なら、思い切って自分の気持ちを打ち明けようか。和桜は笑う優の写真を見つめて、そう考える。
と、ドアの開く音がする。
「あ、和桜」
振り向けば、藤枝が立っている。その腕には、持ちきれない程の花束や贈り物を抱えている。
「ココにいたんか」

「ああ」
邪気のない笑顔で寄ってきて、抱えた荷物をイスに置く。
「ぎょうさんやな」
「うん。弓道部の後輩やら、同じクラスのヤツやら。全然知らんヤツも、泣きながら渡してきたんや。断るのもなんやし」
自分もそうだ。いちいち断るのが面倒で、こうして逃げてきた。

「けど、3年間、早かったな」
「せやな」
「写真、見てたん?」
「ああ」
並んでイスに腰かける。言葉は交わさず、ただ肩先だけをほんのわずかに触れ合わせて、写真を覗き込む。

和桜と藤枝の視線の先には、優がいる。
「なあ、和桜」
ふいに藤枝が声をかける。
「今日で僕らは卒業や。別々の大学に進学して、そうそう会えんようになる」
「せやな」
自分も同じ事を考えていたところだ。

「せやさかい、今から訊くコトに、正直に答えてんか」
「なんや?」
「おまえと優が、キスしたて、ホンマか?」
思ってもみなかった問いに、心臓がはねる。だが顔には出さない。
「優が、そう言うたんか?」
「誤魔化さんと」
ハッとする程、強い声だ。顔を見る。笑ってはいない。怖いくらい真剣な表情をしている。

「キス、した」
吐く息とともに、認める。
「けど、あれは、」
「もうええ」
キスをしたのは事実だが優はその事を間違いだと思っているはずだと、説明しようとした和桜の言葉をさえぎって、藤枝は立ち上がる。

「もうええ。わかった」
哀しい目を、している。
「香太郎」
和桜の手を振り切って、藤枝は部室を出ていく。

…なんで、認めてしもたんや。
きっと藤枝は優から告げられた事の真偽を確かめたかったのだろう。否定して欲しかったはずだ。
それが分かっていながら認めてしまったのは、藤枝の目があまりに真剣だったのと、優本人には告げられない自分の気持ちを、親友である藤枝には知って欲しかったからかもしれない。

いずれにせよ、自分の軽率な言葉で藤枝を傷つけてしまった。
藤枝に伸ばして虚しく空に浮く手を、強く握り締める。きつく唇を噛んで、和桜は自責の念に耐えていた。




  2014.05.15(木)


    
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