弓道の練習は、週に1回だ。今日がその日だから、もう1週間経った事になる。前回、練習のあと優から食事に誘われ、華やかな期待に胸を高鳴らせた。しかし、丸山からの電話でその期待は消え、罪悪感だけが深く残った。

この1週間、優から何度も電話やメールがあった。食事に誘っておいて一人で帰した事への詫びや、話がしたいから会ってくれないかと。
電話の声やメールの文面からは、自分に対する優の特別な感情が窺えるが、和桜は返事をはぐらかす。応えない。

二人きりで会えば、きっとまた感情があふれてしまう。優に触れて、ひとつに溶けあいたくなる。体も心も、優で満たして欲しくなる。
だが、それは許されない。優には丸山がいる。これ以上の裏切りを、優にさせてはいけない。

リビングの大きな窓から空を見上げる。夜空は厚い雲に覆われていて、月明かりすら見えない。
あの雲の上には星になった藤枝がいて、自分と優の現状を高い所から見ているはずだ。
20年以上前、同級生だった優に恋をした。優と藤枝が恋人同士だと知りながら、想いを抑えられず、一度だけ唇を重ねた。
卒業式の日に藤枝から優とキスをしたかと訊かれ、正直に認めた。

藤枝は責めるでもなく怒るでもなく、ただ哀しげな目をしていた。その時の目が忘れられない。卒業したあとは顔を合わせる事はもちろん、連絡を取る事すらしなかった。だが、年月が流れてあの時の甘く苦い感情が思い出に変わったら、藤枝に会って、自分も優が好きだったと告げたかった。そして、傷つけた事を謝りたかった。

…香太郎。
それも、もうかなわない。
和桜はソファに座ると、洋酒のビンを傾けて、グラスに注ぐ。水や氷で割らず生であおる。何度もあおる。強い酒は、胃に落ちて燃える。

高校生の時に恋をして、長い年月を経て再会した優に、また恋をしている。空の上の藤枝は、そんな自分に怒っているだろうか。それとも、呆れているだろうか。
優への恋慕の情と、藤枝への哀惜と後悔との苦しみから逃れたくて、強い酒をあおる。最近、酒量が増えていると自覚しているが、やめられない。
飲んで酔って、それでも楽にはならないのに、飲まずにはいられない。

…きっと香太郎は、嘲笑してるやろな。
空になったグラスをテーブルに置く。
と、携帯電話がメールの受信を知らせる。優からだ。内容は見なくても分かる。今日は弓道の練習日だったが、仕事を理由に行かなかった。行けば優と顔を合わせる。丸山も来るかもしれない。優にも丸山にも、今は会いたくない。会って、平静をよそおう自信がない。

だから、メールも無視する。すると、今度は着信がある。やはり優だ。きつく拳を握って、出ない。やがて着信音は切れ、留守番電話を知らせるマークが表示される。
須臾ためらって、和桜は携帯電話を手に取ると、優からの伝言を聞く。
”俺や。今日、練習に来(こ)おへんかったな。メールにも返事ないし。忙しいんか? それとも、俺と顔を合わせたないんか? 俺は、おまえに会いたい”

「僕かて、会いたい」
つぶやく。
”この伝言聞いたら、電話してんか。何時でもええさかい”
そこで伝言は終わる。この内容を消去するか保存するか、電子的な声が訊いてくる。
「電話、できるワケないやろ」
電話して声を聞けば、余計につらくなるだけだ。震える指先で、和桜は消去のボタンを押した。



優からの電話もメールも無視するうちに、パッタリと連絡が途絶える。諦めたのか、愛想をつかしたのか。自分の不誠実な態度に腹を立てたのかもしれない。ずるいやり方だと胸は痛むが、他に方法はない。そう自分を納得させる。

それから幾日か経って。
仕事から帰って来た和桜のマンションの前に、優が待っている。口をきつく結んで、不機嫌そうに立っている男が優だと気づいて、和桜は内心戸惑う。
が、顔には表さず、一瞥しただけで中に入ろうとする。
「和桜」
呼ばれる。低い声だ。
「話があんね」

「僕にはない」
「電話もメールも無視したのは、俺がイヤやからか?」
そんなわけない。諦めようと必死なのに、優の姿を見て声を聞けば、体が震える。胸が熱くなる。
「帰ってんか」
だが、本心とは間逆の言葉が出る。一方的に連絡を絶ち、わざわざ会いに来たのに追い返すような態度をとれば、本当に優は自分から離れていってしまうだろう。もう二度と、触れてはくれないだろう。

いとしい。だけど、好きになってはいけない。

心が、ちぎれそうになる。それを隠して、平静をよそおう。
「…アホやなあ」
そんな和桜に優はやわらかく言う。腕を伸ばし、指先で和桜の目尻をぬぐう。そうされて初めて、和桜は自分が涙をうかべていた事に気づく。
「苦しいとかつらい時は、そういう顔をしたらええて、なんべんも言うてるやないか」
「優…」
あとは言葉にならない。ひと言でも話せば、熱い想いが涙となってあふれてきそうだ。

「話、聞いてくれるか?」
どんなに取り繕っても、優の姿を見て声を聞いてしまえば、離れようとする気持ちよりも求めようとする気持ちが勝る。自分の気持ちに、抗えない。

和桜は顔を伏せてマンションに入る。一緒に優も部屋まで上がる。玄関で靴を脱ぎ、リビングに入る。
「和桜」
後ろから、ゆったり抱きしめられる。

「このまま、聞いて欲し」
一瞬、身を固くしたが、優の穏やかな声に体の緊張をとく。
「なんでおまえが俺の電話やメールを無視するんか、その理由を考えた。おまえの態度が急に変わったんは、前回の練習日のあとからや」
そのとおりだ。

「それまでは、普通やった。いや、友情とは違う親密な空気を感じてた。この部屋で、おまえと朝を迎えたあとは、もっと」
目を閉じる。優と肌を合わせた時の、余裕のない息遣いや熱い肌の感触がよみがえる。二人でひとつに溶けあって、強く結びついた瞬間の幸せを思い出す。

「おまえは感情表現が乏しい。どう思てるのか、顔を見ただけではわからん。けどな、和桜」
優の腕に力がこもる。
「肌を合わせたら、わかる。おまえが俺を、ホンマはどう思てるのか…おまえは俺を、好きなんや、て」
声が熱を帯びる。

「…そうや」
もう、隠しきれない。
「僕は優が、好きや。高校の時も、再会してからも」
想いがあふれて、言葉になり、涙になる。後ろから肩を抱く優の手に、震える手を重ねる。
「おまえと香太郎が恋人同士やて知ってても、好きて気持ちは抑えられへんかった。初めて弓道部の部室でキスされた時も、嬉しくて胸が熱なった。けど、」
高ぶった気持ちを落ち着かせようと、一度、深呼吸する。

「卒業式の日、おまえとキスしたコト香太郎に訊かれて、認めてしもた。香太郎の気持ち知ってて、傷つけてしもた。僕はずっと、香太郎に謝りたかったんや」
「そうやったんか」
胸の奥底にあった恋慕と後悔と、全てを吐露して和桜は大きくため息をつく。そんな和桜に、優は包む込むような声で言う。
「苦しかったんやな。けど、香太郎を傷つけたのは、おまえやない。俺や」
悲痛な声に振り返る。優は和桜の肩に自分の頭を乗せて、うつむいている。

「確かに、俺と香太郎は恋人同士やった。香太郎は魅力的で愛らしゅうて、告白されて嬉しかった。けどな、俺がホンマに好きやったんは、和桜、おまえや」
「え」
「おまえが好きやった。けど、香太郎から、告白のあと押しをしてくれたて聞いて、おまえへの想いを諦めたんや。桜姫と崇められ、キレイで洗練されたおまえが、俺のような無骨者と釣り合うはずはない、て」

そんな事はない。自分の方こそ、頼りがいのある優には似つかわしくないと思い込んでいた。
「そんな俺と香太郎が、うまくいくはずない。しだいにギクシャクしはじめて。卒業する前には、恋人と違うかったんや。せやから、」
腕を緩める。肩に手を置いて、和桜を正面に向かせる。
「おまえが苦しむ必要は、どこにもないんや」

スッと、心が半分だけ楽になる。
「俺は香太郎を傷つけた罪悪感から、20年以上、おまえとは連絡もとらんかった。けど、香太郎の訃報を聞いて、おまえに再会したとたん、くすぶっとった気持ちが燃えるのを、抑えるコトができひんかった」
目を細めて、額に口づける。
「おまえが、好きや」
ほほに口づけ、涙のうかんだ目尻を吸う。

「俺の、桜姫」
そして、唇に。重なった唇が離れ、ほほを寄せた時に、優も涙をうかべている事に気づく。
「優、涙」
涙の痕に口づける。

目が合えば、小さく笑う。
「”みぎわまさる”やな」
「え?」
初めて聞く言葉だ。意味が分からず、優の顔を見る。

「”みぎわ”は水際、”まさる”はあふれるて意味や。つまり”みぎわまさる”は、涙があふれるて表現になんね。せやさかい、」
正面から和桜を抱きしめる。
「俺とおまえが重なると、涙があふれんね。今までは、苦しいつらい涙やった。けど、これからは、嬉しい幸せな涙にしたい」
自分も同じ気持ちだ。

しかし、安易には受け入れられない。
「おまえの気持ちは、嬉しい。せやけど」
顔を伏せる。肩に手を置いて、突っぱねる。優に想いを告げられて嬉しい反面、素直に喜べない。

「直喜のコトか? …直喜とは、別れた」
「え」
顔を上げる。ウソや冗談を言っている目ではない。
「正直に、和桜が好きやさかい、別れてくれて告げた」
「そんなん」
丸山がどれほど優に愛情を注いでいるのか、傍で見ていた和桜には分かる、その優から別れを告げられた丸山の痛みも、よく分かる。

「和桜。おまえはまた、同じコトをするんか?」
言われて、ドキリとする。
「高校の時は香太郎のために、そして今は直喜のために身を引ことしてるやろ? 俺はイヤや」
肩に置かれた和桜の手を取って、手のひらに口づける。
「俺はもう、おまえを諦めたない。自分の気持ちを抑えたないんや」

「僕も…」
自分も優を諦めたくはない。正直な気持ちを口にすれば、優は本当に嬉しそうにニッコリ笑った。




  2014.05.28(水)


    
Copyright(C) 2011-2014 KONOHANA SYOMARU. All Rights Recerved.
inserted by 2nt system