優と肌を合わせた。お互いが求め合った結果だ。いとしく想う優の熱を感じた幸福感と、気が狂うほどの体の快感とで、心が満たされた。
こんな事は初めてだ。

肌を合わせる事はまた”結ばれる”とも表現する。
今まで好奇心から誘いに応じ、体の関係を築いてきた和桜には、その意味が分からなかった。だが、優に抱きしめられ口づけられ、体の奥深くに触れられて、初めて体だけではなく心まで繋がったような気がした。

自分と優と、お互いの体の境界線が溶けて、ひとつの熱いかたまりになったような、そんな気になった。
幸せな、瞬間だった。

ターン。
鋭い音をたてて、矢が的に中(あた)る。静かに鼻で呼吸しながら、優は乙矢(=2本目の矢)をつがえる。
背筋を伸ばし、弓手で弓をしっかり握って馬手で弦を引く。強めに弦を張っているので、それを引くにはかなりの筋力が必要だ。だが優の逞しく発達した腕と背筋は、いとも簡単に最後まで引く。
その形でピタリと静止して、次の瞬間に矢を放つ。グラスファイバー製の矢はほぼ水平の軌道を描いて、的に中る。

矢が離れたあとも、すぐには緊張をとかない。心身ともに油断せず姿勢を保ち、目は矢が中った場所を見据える”残心”の状態から、弓を倒し正面を向いて、足を閉じる。
ここまでが射の運行である。

和桜は控えの場で正座して待ちながら、射位で弓を引く優の背中を見つめる。そして、思い出す。弓を引く優の腕が、どれだけ自分を強く抱きしめてくれたか。的を見据える鋭い目が、どれだけ熱く自分を見つめてくれたか。静かに呼吸を繰り返す唇が、どれだけ自分に優しく激しく触れてくれたかを。
思い出すだけで、胸が熱くなる。

軽く一礼して射位から離れた優は、他の同好会員と話をしている。明るくハリのある声が和桜の待つ場所まで聞こえてくる。甘く切なく、耳元で何度も名前を呼んでくれた、そんな色は微塵も感じさせない、普段どおりの声だ。
話が一段落ついたのか。優は顔を上げると和桜の傍に寄ってくる。
「お次、どうぞ」

「ああ」
和桜もまた、あの夜の熱をまったく感じさせない冷静な顔で答えて、立ち上がる。
「今日は右からの風が強いさかい、流されるコト計算して狙(ねろ)たらええ」
「わかった」
「心もち、深く引いて」
「せやな」
「それと」
ここで顔を近づけて、
「おまえ、俺のコト見過ぎや」
囁く。

瞬間、あの夜の熱が感触が想いが、一気によみがえる。慌てて自分の耳を手で覆った和桜は、眉を寄せて優の顔を見る。
優はいたずらっ子のような目をして、嬉しそうに笑っている。
「早(は)よ行き」
アホかと声に出さずに言って、和桜は呼吸を整えて射位へ入る。

だが、集中できるわけはない。最後の1本も的をはずれる。かすりもしない。散々な結果だ。
射位から離れて顔を上げれば、優と目が合う。
「おまえが”ゼロ中”とはな」
弓道において、一立ち(=四射)全てが的に中る事を”皆中(かいちゅう)”、1本も中らない事を”ゼロ中”と言う。

ただでさえひとつも中らず消沈しているところでゼロと言われると、余計に落ち込んでしまうので、”残念”とやわらかい表現をする人もいる。
「的前に立つようになって、けっこう経つのにゼロやなんて」
並んで的場で矢を拾いながら、優はそう言ってからかう。

「ほっとけ」
言われて和桜は、悔しい気持ちよりもくすぐったいような気持ちになる。優の傍にいて優を身近に感じると、自然とほほが緩んでしまう。
それは優も同じで、いつも以上に明るい声でしきりに和桜に話しかける。和桜の姿を見て和桜の声を聞くのが心底楽しいと、その目が語っている。

その日の練習も終わり、弓道場を片づけてから更衣室へ行く。三々五々と他の同好会員が挨拶して帰っていくなか、優はまだ更衣室を出ようとしない。和桜もまた、ゆっくり着替える。
今夜このあと、優はまっすぐ帰るのだろうか。それとも、夕飯に誘ってくれるだろうか。食事をしながら軽く飲んで、それから…。

「和桜」
背中を向けていた優が立ち上がって向き直る。そこに和桜がいるのに気づいて、一瞬驚いた表情を見せる。
「なんや。まだおったんか」
「今、帰るトコや」
「さよか」

荷物を持って、更衣室を出る。二人おし黙って、照明の落とされた建物の廊下を並んで歩く。もう
出口が見える。受付の前を通る。それでも、黙ったままだ。
…なに期待してたんやろな。
ドアに手をかける。
「ほな」

「和桜。メシ食うたか?」
また来週と言いかけた言葉と、優の言葉とが重なる。
「一緒に、行かへん?」
誘う優の顔を見つめる。本人はサラリと誘ったつもりだろうが、緊張のためか、鼻が横にふくれている。

優の入れ込みようが可笑しかったのと、誘われた事が嬉しかったのとで、思わず和桜は微笑む。
「ちょ、なんで笑うねん?」
「せやかて。おまえ、必死で」
「当ったり前や」
あの夜はガツガツと強気で体をむさぼった優が、今は食事に誘うのにも緊張している。どちらも、いとしい優の顔だ。

「で、返事は? イエスかはいで答えてんか」
「アホか」
小さく笑いながら頷く。とたんに優はニッコリ笑う。
「よっしゃ。ほな、とっときの店に連れて行ったる」
「お願いします」
「ほんでな、そのあと」

肩の触そうな距離で、建物から出る。と、優の内ポケットから携帯電話の着信音がする。少しだけ、優の表情が曇る。
「電話。ええんか?」
「ええねん」
やがて、諦めたように、長く鳴っていた着信音は切れる。

優は電話にも出ないし、相手を確かめようともしない。だが、和桜には電話をかけてきた相手が誰なのか、見当がつく。
優の顔を見る。優もまた、和桜を見ている。目が合って、しかし言葉は出ない。微妙な空気が、二人の間に流れる。

「和桜」
小さく呼ばれるが、今度は和桜の携帯電話が鳴る。ため息をついて、断ってから電話に出る。
「はい」
「あ、汀さん」
やはり、丸山だ。

予想はできたが、実際に声を聞くと平静ではいられない。
「こんばんは、丸山です。今、ええですか?」
「はい」
優も和桜の電話の相手が丸山だと分かったようだ。複雑な顔をしている。

和桜は優から少し離れて、丸山と話す。
「汀さん、今日は弓道の練習に行かはりました?」
「はい」
「優さん、来てました?」
「ええ」
「もう終わったと思て、さっき携帯にかけたんですけど、出えへんで。優さんが帰ったかどうか、わかります?」

訊かれて、チラリと優の顔を見る。うつむいていて、表情までは分からない。
「ハッキリとはわかりませんけど、もう帰ったんやないかと思います」
「そうですよね。失礼しました」
そこで電話は切れる。和桜は携帯電話をポケットにしまう。

「電話、直喜か?」
低い声だ。さっきまでの高揚感は、優の顔から消えている。
「ああ」
「なんて?」
「おまえに電話したけど出えへんで。もう帰ったか、て」
「ふうん」

口元に手を持っていく。明らかに困惑している。そんな優の様子を見て、和桜は息を吐く。ため息とともに、胸の中に芽生えた華やかな期待は消え、冷たいかたまりが残る。
「電話、したらええ」
本当は電話して欲しくない。本心ではそう願っていても、口では反対の事を言う。冷たいかたまりが、そう言わせる。

「ええねん」
「ええわけないやろ」
「和桜」
優の携帯電話が、今度はメールの受信を知らせる。きっと、丸山からだろう。優も分かっているはずだ。

「ほな」
携帯電話を手にする優に抑揚のない声で言って、和桜はその場をあとにする。この場から離れれば、優は追ってこない。追ってこられない。

自分の中にある冷たいかたまりの正体を、和桜は知っている。罪悪感だ。
優には丸山という恋人がいる。自分と関係を持ったのは、衝動か好奇心か、あるいは藤枝を想っての感傷か。

…アホやな。始めから、わかってたコトやないか。
優の心にいるのは、自分ではない。高校の時は藤枝で、今は丸山だ。それを知っていながら、口づけられ肌を合わせて、悦びを感じた。浮かれて、優もまた自分をいとしく想っているのではないかと、錯覚してしまった。

丸山の電話で、都合のいい夢から一気に覚めた和桜は、深い罪悪感にとらわれながらひとり大またに歩いていった。




  2014.05.24(土)


    
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