信号が青に変わる。
その直前に、いっせいに人の波が動き始める。

…ああ、大阪やな。
次野虎央(つぐのとらお)は苦笑して、人の波に遅れないよう、大股で歩き出す。
長身で、普段から体を鍛えている虎央でさえ、やもすれば置いていかれそうな速さにも、久しぶりの
大阪を感じる。

「ん?」
ちょうど、横断歩道を渡りきったところで、初老の女性がうずくまっている。どうやら、足を痛めている
ようだ。しきりに足首をさすっている。
だが、女性を気遣って足を止める者は、誰もいない。

虎央はチラリと左手首にはめた腕時計を見る。約束した時間まで、あまり間がない。だが、このまま
見捨ててもおけない。
「おばちゃん、どないしたん?」
笑顔で話しかける。

「どないも、こないも」
顔をあげた女性は、一瞬、虎央の長身とスーツの上からでもわかる鍛えあげられた体に警戒した
ようだが、すぐに虎央の明るい目を見て、ホッとしたように話し始める。

「そこの段差でこけてしもて。足首ねんざしたみたいやわ」
「そら難儀やな」
言って、女性が楽なように、近くのイスに座らせる。
「どうや、歩けそうか?」
「いや、アカンわ」
「ほな、タクシー呼ぶさかい、病院で診てもろたらええわ」

ポケットから携帯電話を出す、が、ちょうど充電が切れていたようで、液晶画面は真っ暗なままだ。
「アカン。俺のケータイ、バッテリー切れやわ」
心配そうに見上げる女性を安心させるように、もう一度にっこり。
「あ、そこの兄(にい)ちゃん」
そして、近くを通りかかった若い男に声をかける。

だが、男はチラッと見ただけで、通り過ぎようとする。
「ちょお、兄ちゃん、待ってや」
2度言われて、ようやく足をとめる。
並んで立てば、虎央と変わらぬくらいの長身だ。体も相当鍛えているように見える。そして、目鼻
立ちの整った顔は、あきらかに迷惑そうな表情をしている。

「すまんけど、兄ちゃんのケータイでタクシー呼んでんか?」
「僕が?」
「あのおばちゃん、困ってんね。俺のケータイ、バッテリー切れてるし」
「急いでますんで。失礼」
「あ、おい」
男はそれだけ言うと、スタスタ行ってしまう。

「なんや、あいつ」
男の後ろ姿にうそぶいて、女性のところに戻る。
「ほな、おばちゃん。俺、近くの店で電話借りてくるさかい」
「ほんま、おおきに。けど、なんでそんなにしてくれるん?」
女性の疑問ももっともだ。普通ならこの朝の忙しい時間、わざわざ足をとめて、見ず知らずの
他人を助ける者はいないだろう。

虎央は胸をはって、
「俺の仕事な、人助けやねん」
「人助け?」
不思議そうな顔をする女性に大きく頷いて、虎央はもう一度にっこり笑った。



コンコン。
「入りなさい」
「失礼します」
署長室とプレートの貼ってあるドアをノックすれば、すぐに中から返事がある。
虎央はゆっくり戸を開けて、部屋の中に入る。中には、奥の大きな机のむこうにピカピカの階級章を
つけた制服の男がひとり。その手前に虎央よりもさらに大きな男がひとり、やはり制服を身に着けて
立っている。

「ずいぶん、遅かったやないか」
「はぁ」
確かに、約束した時間より30分は遅れている。
机の向こうに座っている男が署長だ。署長は不機嫌な声音になっているが、虎央はいっかな平気な
顔だ。

「携帯電話にも出えへんし」
「ああ、バッテリーが切れてましてん」
「なんやて」
悪びれず言う虎央に、署長は絶句する。
「そら、キミ、消防吏員としての自覚が足らんのと違うか」

「まあまあ」
さらに何か言おうとする署長を大きな手で制して、立っている男が間にはいる。
「今日は次野は非番で、ここには着任の挨拶に来ただけですさかい」
「そら、そうやけど」

「署長、遅れてすんませんでした」
このタイミングで、虎央は頭を下げる。
「ケータイも、今後気をつけます」
そして、にっこり。この虎央の明るい笑顔を見ると、誰でも毒気を抜かれてしまう。

「ま、まあ。そういうコトなら」
署長は口の中でブツブツ言っているが、それ以上は何も言えなくなってしまったようだ。

「あらためまして、」
虎央はキチンと立って、敬礼する。
「明日付けで天道消防署、特別救助隊に着任します、次野虎央です。よろしくお願いいたします」
「うむ」
署長も、間にはいってくれた大きな男も返礼する。

「次野くんには、この岩田猛弘(いわたたけひろ)隊長の率いる第2小隊で、副隊長としてがんばって
もらわなアカンからな。よろしく頼むで」
「はい! 岩田隊長、よろしくお願いします!」
「こちらこそ、よろしく!」
言って、手を出して握手してくる。かたちばかりの握手ではなく、欧米式にがっちりと握ってくる。

「私も今回の異動で隊長を拝命したばかりやさかい、なにかと次野副隊長にはサポートしてもらわな
ならんトコがある。ホンマ、よろしくな」
「最大限、尽力します」
虎央は自分からぐっと手を握って、離す。

「ところで、このあと時間あるか?」
「はい」
「さっそくやけど、資器材や訓練計画について、話し合いたいんや」
「はい。お手伝いします」
答えて、そろって署長に敬礼してから、部屋を出る。

「おい」
ドン! ドアが閉まるやいなや、虎央は岩田のわき腹を思い切り小突く。
「久しぶりやな」
「おお」
岩田も負けじと虎央のわき腹を小突く。

「元気やったか?」
「ああ。おまえは?」
「見てのとおりや」
署長室での、どこか他人行儀な面持ちとは違い、お互い気のおけない表情になっている。

それもそのはず。虎央と岩田は消防学校の同期生で、初めて配属された先も同じ、この天道消防署
だった仲だ。
「今夜は、おまえの隊長就任のお祝いをせなアカンな」
「おまえの天道消防署復帰祝いもな」
「ああ。もちろん、おまえのオゴリやで、隊長さま」
虎央の言葉に大きく笑って、もう一度、岩田は握手してくる。今度は腕をたてた、腕相撲をするような
握手の仕方だ。

…コイツはこんな握手をするヤツやったな。
数年前とかわらぬ力強い握手に、思わず虎央は目を細めていた。





  2012.01.04(水)


    
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