朱鷺を哀しませてしまった…。
あの日以来、また朱鷺の態度は硬くなっている。仕事中はキチンと受け答えもするし、訓練でも現場
でも虎央の指示を正確に把握し、完璧に動いている。
だが、以前のような、どこか甘えた顔は見せない。ようやく心の扉を少しだけ開いて、素直な顔を
のぞかせていたのに、また扉の内側に引っ込んでしまった。他人を寄せつけない、きつい顔に戻って
いる。

その原因は、虎央自身にある。虎央が、朱鷺の気持ちは信じられないと、告げたからだ。そこで
見せた哀しい目が、忘れられない。
朱鷺にあんな目をさせるくらいなら、言わなければよかったのだろうかと、何度目かしれない自問を
する。
だが、何度考えても、答えは出ない。

虎央は大きく息を吐く。と、
「トラ、噴いてる!」
「え、あっ!」
岩田の声にハッとして手元を見れば、大きな鍋からお湯があふれそうになっている。慌てて火を
止めて、ふたを取る。

「熱っち!」
あんまり慌てていたので、お湯がむき出しの腕にはねる。
「アホ、早よ冷やせ」
岩田は虎央の腕をつかむと、蛇口の下に持ってきて、勢いよく水を流し始める。
今は24時間勤務の最中だ。勤務中は署内から勝手に出られないので、食事も署内で摂らなければ
いけない。そこで当番を決めて、自分たちで料理をする。今日の当番は虎央と岩田だ。食堂で夕食の
準備をしようと、うどんを茹でていたところだ。

「大丈夫か?」
「ああ」
それが、朱鷺の事を考えていて、ボーッとしていたようだ。幸いすぐに水で冷やしたおかげで、火傷
にはなっていない。
「かんにん」
「気ぃつけえよ」
虎央の腕を確認して、岩田はホッとしたように言う。

「ほな、そっちは任せたさかい」
背を向けて、皿の用意をし始める。岩田が離れて、逆に今まで岩田がほんの近くにいたのに気づく。
なのに、少しも気持ちが波立たない。

「うどん、茹で上がったか? なんや、へんな顔して」
「いや。なんも」
振り向いた岩田に訊かれるのを、笑ってごまかして、うどんをザルにあげる。
「はい、茹でたで」
手早くうどんを皿に取り分け、その上に温めておいたレトルトのカレーをかける。

「カレーうどん、いっちょあがり、と」
「せやけど、なんでクリスマスイブの日に、カレーうどんやねん」
岩田は笑いながら、皿を並べる。言われて初めて、今日がクリスマスイブだったことを、虎央は
思い出す。
「えやないか。今夜は冷えるし。温かいモンがええやろ」
昼過ぎから振りだした雨が、夕方からミゾレに変わった。今夜は寒いイブだ。

「それとも、署の予算でケーキもつけてくれるか?」
「それは無理」
岩田の返事に、虎央は声をたてて笑う。そして不思議に思う。どうしてこんなに平気になったのか、
と。

トゥー、トゥー、トゥー。
そこに、交通事故入電中の信号音が鳴り響く。特別救助隊にも出場指令が出るかもしれない。虎央と
岩田は顔を見合わせて、急いで隊に戻る。食事より何より、人命救助が最優先だ。

隊員6人そろうやいなや、出場指令が出される。岩田は出場指令書の内容を伝達する。
「トラックの追突事故発生。被害車両内に要救助者あり。場所は阪神高速1号環状線、大江橋付近」
えっ、と思わず朱鷺の顔を見る。くしくも10年前の事故と同じ日同じ場所で、同じような事故が
おこっている。
朱鷺もまた、驚いたように虎央の顔を見たが、すぐに真剣な表情に戻る。

「第2小隊、出場!」
岩田の号令一下、隊員は救助車に乗り込むと、急いで現場に向かう。
現場に向かう間にも、岩田は先着隊からの情報を無線で受けている。すっかり日の落ちたこの時刻、
ライトを点けた車で渋滞した道を赤色灯を回しながら事故現場へと急ぐ。

無線の情報によると、渋滞で詰まった車の列に、後ろからトラックが追突したようだ。被害車両の
中に要救助者がいるが、ガソリンが漏れて引火の可能性があるので、迂闊に手がだせない、との
こと。

…あの日も、こんな氷雨が降っとたな。
緊張の走る救助車の中で、虎夫は寒さで手がかじかまないよう握ったり開いたりしながら、そう
考える。まるで今夜の出場は、10年前の事故の再現だ。

だが、10年前、何も出来ず悔しい思いをした自分とは違う。特別救助隊に入り、充分に人命救助の訓練を重ねてきた。現場も経験してきた。
今度こそ…。虎央はグッと拳を握る。

隣に座る朱鷺の顔を、横目で見る。朱鷺は顔を伏せて、緊張の面持ちをしている。無理もない。
自分の両親の命を奪った事故と、同じような事故がおきているのだ。平静でいられるわけがない。
虎央は、大丈夫か?と声をかけるかわりに、ヒザで朱鷺のヒザを押す。
朱鷺はハッとしたようにヒザを見て、虎央の顔を見る。不安げな目の色も、虎央の落ち着いた顔を
見るうちに、冷静な表情になってくる。

大丈夫やな。小さく頷けば、応えるように小さく頷く。
言葉に出さなくても、お互いの気持ちは目をみれば分かる。いつの間にか、そんなふたりになって
いる。

「降車」
現着し、岩田の命令でいっせいに車両を飛び降りる。すぐに現場の指揮官より指令が出る。
「被害車両中に、要救助者あり! 救助隊員は救助および危険排除活動に取りかかれ!」
「よし!」

阪神高速1号環状線は、時計回りに一方通行で市街地を通行する、大きな道路だ。事故は、
堂島川に沿って走る高架橋の上で発生した。
現場では、追突したトラックが左手の防護柵に頭から突っこんで、停まっている。そして、追突され
大きく歪んだ被害車両は、右手の防護柵を破って車体が半分川に飛び出している。白い軽自動車
だ。その車内に要救助者がいる。
被害車両からガソリンが漏れており、いつ引火し火災がおこってもおかしくない。また、前輪が川に
飛び出した不安定な状態で、このままでは橋から落ちる危険もある。だから、救助活動は迅速に、
そして安全に行わなければいけない。

「次野、弓立は被害車内より要救助者の救助! 堤、鈴木は漏れたガソリンを油処理剤で除去! 俺、城田は被害車両の固定作業! かかれ!」
現場の状況を把握した岩田が、トラメガ(=トランジスタメガホン)ごしに命令する。その命令を
分かっていたかのごとく、各隊員は資器材を持って持ち場へと走る。

虎央と朱鷺も油圧救助器具を持って、被害車両へと急ぐ。ミゾレの混じった冷たい雨が、装備の
上から降っている。吐く息が白い。現場周辺では、漏れたガソリンの臭いが鼻を突く。
まずは岩田と城田が被害車両の落下を防止する作業を始める。平行して、虎央が車内にいる
要救助者の状態を確認する。
運転席側では男性が、助手席側では女性が首をうなだれて微動だにしない。
「天道消防署です! 大丈夫ですか!」
車の外から声をかけるが、反応はない。ドアを開けて救助しようにも、大きく歪んだドアはびくとも
しない。

「ドアは開放不能! 油圧救助器具で、ドアを開放する!」
「よし!」
エンジンポンプユニットを被害車両のそばに置き、油圧救助器具へ動力を伝えるためのホースを
接続する。虎央も朱鷺もムダな動きひとつせず、あっという間に設定を終える。

「次野。車体は固定したが、雨で足場が悪い。それにこの寒さや。救助は短時間で安全に、ええな」
「よし!」
難しい事を平気で言う。だが、特別救助隊なら出来て当たり前の事だ。そのために毎日繰り返し
訓練している。

虎央は力強く返事をすると、、
「エンジンポンプ、始動!」
低い振動をともなってモータが回り始める。車両が固定されたのと、各資器材の作動状況を確認
して、いよいよ救出にとりかかる。

まずはスプレッダと呼ばれる器材を、先端が閉じた状態でドアの隙間にねじこむ。先端が入ったら
圧をかけて、少しずつ広げていく。この作業を何度か繰り返して、ドアをこじ開けていく。
向かい合わせに立って、虎央がスプレッダの先を持ち、朱鷺はそれを支えて、なお油圧ホースが
からまないよう、補助している。

訓練で何度も繰り返してきた手順どおりに、作業は進められる。何も言わなくても、次にどう動くか、
何をすればいいのかが、お互いに分かっている。
…こいつ、いつの間にこんなに成長しとったんや。
少しずつドアをこじ開けながら、虎央はそう思う。最初の頃は自分に反発して、チグハグな行動しか
とらなかったのが、バディを組んで、少しずつ打ち解けていって、だんだん息が合うようになってきて。

それでも、現場では虎央の方が経験豊富だったので、朱鷺をサポートしてやらなくてはと、どこかで
思っていた。
だが、今は違う。自分の両親の命を奪った事故と酷似したこの状況で、この落ち着きよう。本当に、
頼もしい成長ぶりだ。

「ドア開放、成功!」
まずは助手席側に座っていた女性を、車内から救助する。すぐさま救急救命士である堤が、女性の
状態を確認する。
「大丈夫ですか?」
「う…はい」
弱々しい声ではあるが、返事をする。どうやら意識が戻ったようだ。女性は救急車へと運ばれて行く。

次は、運転席側の男性だ。だが、足がペダルにはさまっていて、すぐには救出できない。
「ペダルカッター、準備!」
虎央が指示したとたん、ガクンと車両が大きく揺れる。
「どないした!」
「バランスがくずれて。少しずつ動いてます!」
助手席側の女性の負荷がなくなったことで、車体のバランスがくずれたらしい。
このままでは、もうひとりの要救助者を乗せたまま、車は堂島川に落下してしまう。

…どないしたらええんや。
虎央は手元に集中しながら、必死で最善策を考える。




  2012.02.01(水)


    
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