外では今までどおり”弓立””副隊長”だが、マンションに帰れば”朱鷺””虎央さん”と呼び合う。
虎央を”虎央さん”と呼ぶ朱鷺は、木で鼻をくくったような”ですます”の口調ではなく、タメ口をきくし、
いつもの冷静な顔ではなく、いくぶん甘えた顔になっている。

自分もまた”朱鷺”と呼ぶ顔は、ずいぶん締りのない顔になっているのだろうと、虎央は自分で思う。
それも仕方がない。朱鷺に惹かれて始めている。自分は一歩たりとも動かずに、朱鷺の気持ちが
近づいてくるのを眺めていようと考えていたが、それは出来そうにもない。

…ガキやあるまいし。ええトシこいたおっちゃんが。
虎央はひとつ苦笑して、寝返りをうつ。
ここは天道消防署の中で、今は24時間勤務中だ。災害入電にそなえて、深夜の仮眠を交代で
とっているところだ。

以前なら、出場した際の手順や資器材の段取りなどを思い描きながら、体を休めていたのだが、
今はこんな場面でも朱鷺の事を考えている場合が多い。
「う…ん」
もう一度、寝返りをうつ。隣には朱鷺が寝ている。もちろん熟睡はしていないだろうが、目を閉じて
規則正しい呼吸している。

虎央は音をたてないよう、静かにベッドから下りる。晩秋の、夜明け前のこの時間、寒さでくしゃみが
出そうになる。それをガマンして、眠る朱鷺の肩まで毛布をしっかりかけてやると、上着を着て仮眠室
から出る。
2階にある仮眠室から階段を下りて通信室まで行けば、岩田がいる。深夜の時間帯には、隊員は
交代でここに入り、出場命令や電話による通報などを受けることになっている。今の時間は岩田の
当番だ。

「よぉ」
声をかければ、少し笑って、
「今は仮眠の時間やろ」
隊長として、少しとがめるような口調で言う。

「ああ。けど、なんや目が冴えてしもて」
「しゃあないな」
岩田はイスに座ったまま、大きく伸びをする。
「今夜は静かやな」
机に腰かけて、虎央は足を組む。

「ああ。けど空気が乾燥しとるさかい、気は抜けんな」
ひと晩で何度も出場命令がでる事もあれば、今夜のように静かな夜もある。だが、出場がないから
といって、気を抜くわけにはいかない。
本来なら、今も虎央は仮眠をとっておかねばならないのだが、岩田の机に腰かけたまま、仮眠室へ
戻ろうとしない。

「最近、弓立の動きが良うなってきたな」
そんな虎央に、岩田は朱鷺の話をし始める。
「指示が出ると同時に、体が動いてる。現場経験は一番浅いはずやのに、他の隊員の動きについて
いってる」
「せやな」
確かに、特別救助隊に入りたての頃と比べると、段違いに良くなっている。めったに人を誉めない
岩田に朱鷺を誉められて、思わず虎央はニヤけてしまう。

「けど、俺に言わせたらまだまだや。無駄な動きもあるし、指示を聞かんと突っ走るコトもあるや
ないか」
だが、口では厳しい事を言う
「手厳しいな」
「俺が一番近くで見てるさかい、ようわかんね」
「最近、おまえら仲ええしな」
「ああ。やっと、あの25歳児も俺になついたんやろ」
笑ってそう答える虎央の顔を、岩田はじっと見つめる。

「トラ、俺のカン違いかもしれんけど、おまえと弓立は、恋人同士とちゃうんか?」
そして、ズバリと訊かれる。岩田の目は、虎央のウソを許さない真剣な目をしている。
「そうや」
あっさり、認める。岩田に朱鷺との関係を隠しておく気はない。
「なんで、わかったんや?」

「弓立の表情が、柔らかくなった。きつい顔しか見せへんかったのに、時々笑(わろ)てる。決まって
おまえと一緒におる時や」
「よう、見てるな」
口の端をあげて笑う。
「おまえかて、そうや。弓立とおる時は、ええ顔で笑(わろ)てる…いつからや?」

「アイツかばって俺がケガした時からやさかい、2ヶ月くらい前や」
「なんで弓立と?」
「根ほり葉ほり、訊くんやな。なんでや?」
質問に質問で返せば、困ったような顔をして、黙ってしまう。

虎央はため息をついて、視線を落とす。
「…なんでて、そら、寂しかったからや。俺も、朱鷺も」
ヒザに乗せた左手にある指環を、見つめる。
「肌の温かさで安心するコト、俺に教えてくれたのは、おまえやないか」
10年前、朱鷺の両親の命を奪った事故の後、虎央は消防士としての力量のなさを嘆き、辞めよう
とまで思い悩んだ。
そんな虎央を支え、励まし、特別救助隊へ導いたのは、他でもない岩田だ。

「あの時、タケが俺を慰めてくれたように、俺も朱鷺を慰めたんや」
「好き、なんか?」
訊かれて、瞬間、朱鷺の顔がうかぶ。自分を”虎央さん”と呼ぶ、くすぐったそうな甘ったれた顔だ。
「さぁ…寂しいモン同士、身を寄せ合(お)うてるだけやし」

虎央の目は、指環のまだ向こうを見ている。
「俺は、一緒におって楽しいで。けど、アイツは違う」
少し、言葉を考えて、
「アイツは、誰かと心を寄せ合って生きるコトに、慣れてへんのや。その誰かが、今は俺なだけで、
恋や愛とは違う。いずれ、ホンマの恋をして、俺から離れていくやろ。けど、それでええねん」

「トラ。ホンマに、そう思てんのか?」
低い岩田の問いに、唇をかむ。
「…そない哀しそうな顔、すんなや」
虎央の左手に、岩田は自分の手を重ねる。大きくてごつい手だが、昔と変わらず温かい。

虎央はその手を見つめる。そして、右手を伸ばし、岩田の肩に置く。そのまま、ゆっくり顔を寄せる。
岩田は、虎央の顔が近づいてくるのをじっと見つめて、動かない。
唇と、唇を重ねても、舌を絡めても、微動だにしない。

「キスは、許しても、」
ほんの数センチの距離から、岩田の目をのぞきこむ。
「俺の想いは、拒むんやな」
目を通して、岩田の心を読もうとする。だが、そこにあるのは慈しみの色だけだ。

「俺がなんぼおまえを想たかて、結局、おまえは応えてくれへんかった」
「トラ、おまえは親友や。それじゃ、アカンのか?」
「親友、か」
小さくつぶやく。

岩田は自分に対して、ずっと”親友”の距離を保ってきた。虎央が一方的に想いを寄せて、叶わ
なくて、それで諦めて妹の佐知子と結婚した。
しかし、やはり岩田への想いは完全には断ち切れず、佐知子と一緒にいるのが辛くなって、離婚
した。

5年ものあいだ離れていても、まだ岩田への想いはくすぶっていたはずだ。
しかし、その岩田と唇を重ねても、昔ほど胸は高鳴らない。また、親友の距離に戻っている。
それが、どうしてなのか。虎央には分からない。

「この指環な」
分からないまま、薬指に鈍く光る指環を、指先ではさむ。何度か上下に動かしただけで、指環は
簡単に抜ける。
「佐知子ちゃんに義理立てして、はめてたわけと違うんや。これはずしたら、おまえとの縁まで
切れてまうようで、怖かったんや」
「トラ。ほな、離婚した理由て、」
答えるかわりに、にっこり笑う。

「俺の勝手な思い込みで、おまえにも佐知子ちゃんにも、辛い思いをさせて、かんにんな。…もう、
交代の時間やな」
腕時計で確認すれば、そろそろ次の当番隊員が来る時間だ。
「俺、仮眠室に戻るわ」
机から降りて、大きく伸びをする。
「ほな。長居して、かんにん」

「トラ」
そのまま行こうとする虎央を、岩田は呼び止める。
「おまえ、」
「やめやめ」
だが、岩田が何か言うまえに、虎央は言葉を切る。

「あんま優しいコトばっかり言いな。おまえの優しさは、俺には薬にもなるけど、」
ここで軽く息を吐いて、
「毒にもなるんや」
それだけ言って、あとは岩田の顔も見ず、通信室を出て行った。



それより、少し前になる。
ふと目を覚ました朱鷺は、隣に寝ているはずの虎央の姿がないのに気づく。トイレに立ったんだろう
と、目を閉じるが、いっこうに虎央が戻ってくる気配はない。
今度は、気になって眠れなくなる。最近では、虎央が隣に居るのが当たり前になっていて、少し
気配が感じられないだけで、こんなにも不安になる。

出会った頃には、こんなに強く心惹かれるなんて、想像も出来なかった。
同性で、10歳も年上で、おっちゃんで、体格も自分とかわらないくらいガッチリしていて、おまけに
衝突ばかりしていたのに、今ではこんなにもいとおしい。

自分の変化が可笑しくて、朱鷺は自嘲気味に笑う。そういえば、よく笑うようになったと、自分で思う。
…僕は、どんだけ虎央さんに惚れてんのや。
うすく笑って、朱鷺はベッドを下りて仮眠室を出る。

トイレまで行くが、虎央はいない。もしかしたら、事務処理をしているのかもしれないと、1階の事務室
へ行く。
事務室にも虎央の姿はないが、隣の通信室から話し声が聞こえる。

どうやら虎央と岩田が何か話しているようだ。その話のなかで自分の名前が出たような気がして、
思わず戸の影で聞き耳をたてる。

そして、
「…っ」
すべての話を、朱鷺は聞いてしまった。




  2012.01.25(水)


    
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