あまりの大声に驚いて、由貴は持っていた鍋のフタをシンクに落としてしまう。
「す、すみません」
口の中で謝って、手元に視線を戻す。

この部屋には岸川の他にもう一人、男がいるようだ。それも恐ろしく不機嫌な。
「食事やて! どこに食うヒマがあんね!」
「せやかて、食べなアカンでしょう」
手では鍋のフタを洗いながら、耳は岸川と男のやりとりを聞いている。イライラした男の声とは対照的に、岸川の声は落ち着いている。

「どうせまた、店屋物かスーパーで買(こ)うて来た惣菜やろ」
「いえ。今日はちゃんと温かいモンですさかい」
「ホンマか?」
そこで男はリビングに漂う料理の匂いに気づいたようだ。
「せやったら」
部屋から出てきて、テーブルにつく。

出てきた男は、白髪交じりの髪は乱れ、ヒゲも伸び放題。おまけに大きなぶ厚いメガネをかけているので、外見からは歳が分からない。着ているのはパジャマだろうか。それも何日も着続けているような汚れ具合だ。
「はい、どうぞ」
岸川が取り分けたスパゲティを受け取るなり、ガツガツ食べ始める。よほど空腹だったのか、物も言わずにひと皿食べると、おかわりをもらって、それもまたガツガツ食べる。

「イヌマくん、ちょお」
手招きされて近くに行く。
「家事を頼む人探しとけて、まえ言うてはりましたよね。この子、イヌマユタカくん。どうです?」
「は、初めまして」
てっきり岸川が雇い主とばかり思い込んでいたが、どうやらこの年齢不詳のうす汚れた男がそうらしい。バンダナを取り、丁寧に頭を下げる。

しかし男は食べる事だけに集中して、由貴の顔を見ようともしない。
「今はなに言うてもアカンな。さ、僕らもお相伴しよか」
男の様子ににが笑いして、岸川は由貴にもテーブルにつくよう促す。
「え? ぼ、僕も、ご一緒して、ええんですか?」
「皆で食べた方が、おいしいやろ?」
驚いた顔の由貴に岸川は優しく笑うと、由貴にもスパゲティを取りわける。

「いただきます」
岸川の心づかいに感謝しながら、由貴は手を合わせてひと口。即席で作ったわりには、しっかり味がついている。まあまあの出来だ。ただもう少し、味のアクセントとして辛みを利かせた方が良かったかもしれない。料理人としてのクセで、味の分析をしながら食べる。

すると男は満腹になったのか、ようやくフォークを置いて水を飲む。
「落ち着きました?」
すかさず、岸川は空になったコップに水を足す。
「おい」
岸川を無視して、男はイスの背もたれに背中を預ると、由貴の顔をまっすぐ見る。
「おまえ、ユタカてどんな字書くんや?」

「え、そ、それは」
聞いていないようで、ちゃんと聞いていたようだが、いきなり、それも強い口調で訊かれて、由貴は口ごもる。
「どんな字や?」
「は、はい。自由の”由”に”貴い”、です」
促されて、ようやく答える。それだけで、心臓は早鐘を打つ。

「へえ”由貴”て書いて”ゆたか”て読むんか」
感心したように岸川は言うが、
「由貴ねえ…ほな、ユキな」
男は勝手に決めて、立ち上がる。

「岸川。仮眠するさかい、2時間たったら起こしてや」
「はい」
そのままもとの部屋に戻ろうとするが、途中で立ち止まる。
「それと、次は味に辛みを利かせてんか」

「は、はい」
男の言葉に、由貴は少なからず驚く。自分と同じように辛みを利かせた方がいいと思うとは、味の好みが似ているのかもしれない。
「頼むで、ユキ」
黙ってしまった由貴の目を見て、ニンマリ笑う。

ぶ厚いメガネに伸び放題のヒゲが邪魔して男の表情はわからない。それでも一瞬だけ優しい声になる。その深い響きに、由貴は男の大きな背中が部屋に入るまで、じっと見送る。
「・・・ビックリしたやろ」
「え」
声をかけられ、驚いて心臓が跳ねる。それほど由貴は男の背中に集中していたようだ。

「いえ、はい、あの」
「先生、”次は”て言うてはったから、キミは合格やな」
言いながら、岸川はテーブルの上を片づけ始める。由貴は慌てて岸川を手伝う。
「あの、先生て?」
岸川は男を”先生”と呼んで丁寧な態度をとっているが、あのうす汚れた男が何の先生なのだろう。由貴は思い切って訊いてみる。

「ああ。家事をお願いすんのやったら、ちゃんと言うとかなアカンな」
使った食器をシンクに置いて、岸川は続ける。
「あの人は瀬尾瑛朗(せおひでろう)。て言うより、小説家のセオヒデロて言うた方がええかな」
小説家のセオヒデロなら、由貴でも知っている。有名な賞を取った代表作だけでなく、いくつもの小説が映画化やドラマ化されている。

「えっ、ホンマに?」
由貴自身、セオヒデロの小説を読んだ事はないが、テレビでドラマを見た事はある。有名な俳優や女優が出演している恋愛物のドラマだったが、ストーリーも面白かったし話題にもなったので、映画化されるとも聞いている。

主人公の男は優しくて頼りがいがあり、その恋人の女性も主人公を一途に信じて、最後にようやく結ばれる。そんな素敵な恋物語だったが、それを書いたのがあの男だとは。にわかには信じがたい。
「ちょっと、意外やろ」
岸川は由貴の驚く様子に、小さく笑いながら続ける。

「実際、先生はテレビにも出えへんし、雑誌の取材も写真はNGや。露出の多い人と違うさかい、セオヒデロの姿を知ってる人は、あんまりいてへんね」
「岸川さんは?」
皿を洗いながら訊く。
「僕は、先生の小説を扱(あつこ)うてる出版社の社員や。担当編集者やな」
「はあ」
それなら岸川があの男を先生と呼ぶのも分かる。

洗い終わった皿を由貴から受け取って、岸川は食器乾燥機に並べる。手馴れた様子だ。食器や調理道具がどこにあるのかも把握している。もしかしたら、食材を調達しているのも岸川かもしれない。
食事の面だけでなく、岸川はあの男の生活全般に気を配っているのだろう。由貴には小説家と編集者との関係は分からないが、これが普通なのだろうか。

「コーヒー、飲む?」
片づけが終わったところで、岸川はそう訊く。
「はい。あの、僕、淹れます」
由貴は仮眠をとると言った男の邪魔にならないよう、なるべく音をたてないようにコーヒーを挿れる。
「ほな飲みながら、キミの仕事内容を説明しとこか」

「はい」
自分と岸川の前にコーヒーカップを置いて、由貴はテーブルにつく。そして、いつもバイト先でそうするように、自分の荷物の中からメモを取り出す。バイト先でもそうだったが、2度説明してもらわなくてもいいように、必ずメモを取るようにしている。

そんな由貴の様子を見て微笑むと、岸川は仕事内容を説明する。時間は昼前から夕方まで。食事の用意をメインに、掃除、洗濯も任されるようだ。
「けどまあ、一番やっかいなんは、食事の管理やな」
「なんや食物アレルギーとか、あるんですか?」
特定の食物に対してアレルギーをおこす体質だったら、十分に気をつけなければならない。

「いや、アレルギーとはちゃうねんけど」
メモをとる手を止めて岸川の顔を見れば、にが笑いをうかべている。
「好き嫌いが多くてなあ」
「好き嫌い、ですか」
誰でも多かれ少なかれ、苦手な食べ物はある。普通の事だ。

「ちなみに、どんなモンが苦手なんです?」
「うん。まず生野菜は絶対口にしはらへん。生の魚介類もアウトや。果物も食べへんし、肉類も生っぽいモンはアカン。味の好みでいけば、極端に刺激の強いモンは食べはらへん」
どうりで、生野菜や果物の類が置いてないはずだ。まだまだ岸川の注意は続く。
「にがいモン、辛いモン、すっぱいモン、しょっぱいモン。全部ほどほどの味やないと、とたんに不機嫌にならはる」

「はあ」
こんなに好き嫌いが激しいのならば、いったい何を出せばいいのだろうか。聞いているうちに不安になってくる。
「・・・そない心配せえへんといてもええよ」
黙ってしまった由貴に気づいて、岸川は穏やかに言う。

「実はキミの前にも何人か家政婦さんを頼んだんやけど、なかなか先生の気に入る人がおれへんで」
気難しそうな人だし、食べ物の好き嫌いが激しい人はまた、人の好き嫌いもハッキリしていると聞いた事がある。

「担当編集者として、仕事の管理をするマネージャを置いてくれて、何度も先生にお願いしてんけど、これがなかなか。仕方なく僕が先生の仕事や生活全般の管理もしてんけど、それも限界があってな」
「はあ」
岸川は上品にコーヒーをひと口。

「けど、キミには名前訊かはったな」
”由貴”という字を聞いて、即座に”ユキ”と決められた。
「それに”次は”て言うてはったし。どうやら先生、キミのコト気に入ったようや」

「そうですか?」
本当に気に入ったのならばそれなりの態度をとりそうなモノだが、男は終始不機嫌な様子だった。
「そうや。今は締め切り前で、先生も神経質になってはる。まあ、あんな感じの人やけど悪い人とちゃうし、僕もしばらくは毎日顔出すようにするさかい、よろしく頼むわ」

「はい」
丁寧に頭を下げる岸川に、慌てて由貴も頭を下げる。ともかく不安はあるが、この話を引き受けてみる事にした。




  2013.09.18(水)


    
Copyright(C) 2011-2013 KONOHANA SYOMARU. All Rights Recerved.
inserted by 2nt system