次の日から由貴は新しい職場へ通い始める。祖父母と暮らす自宅からは電車で30分くらいだろうか。最寄り駅から、なだらかな上り坂を歩いて10分。息があがる頃にマンションに着く。豪奢な造りのマンションだが、その最上階の角部屋は広いバルコニーから緑があふれている。ちょっとした空中庭園のようだ。

生活レベルの高い人ばかりが住むこのマンションでも、とりわけ特別なその部屋が、由貴の新しい職場だ。ホテルのように清潔で広い玄関を入る。もちろんオートロック式だ。
「お疲れ様です」
玄関奥には管理人室もある。声をかければ、顔見知りになった初老の管理人も笑って返事する。

預かったカギで中に入り、エレベータで最上階まで。その一番奥の部屋へ入る。
「失礼します」
声をかけて、玄関で靴を脱ぐ。
この部屋の住人で由貴の雇い主でもある瑛朗はまた、小説家のセオヒデロでもある。新作が刊行されるたびに話題となり、ドラマ化や映画化される、そんな売れっ子の小説家だ。

テレビに出る事もなく、雑誌の取材でも写真は撮らせないセオヒデロの顔を知るのは、ほんの一部の人間だ。由貴自身、小説は読んでいないがドラマをテレビで見て、セオヒデロは知的でもの静かな大人の男性だと、勝手に想像していた。

だが、実際の瑛朗は由貴の想像とはだいぶ違う。
白髪交じりの髪はボサボサに乱れ、ヒゲも伸び放題。ぶ厚いメガネをかけているので、若いのか歳なのか、見た目では判断できない。おまけに着ているのはうす汚れたパジャマだ。きっと何日も着替えていないのだろう。

由貴の仕事は、掃除に洗濯と家事全般を任されている。なかでも食事の管理には頭を悩ませている。
なにしろ瑛朗は食べ物の好き嫌いが激しい。味つけにもうるさい。肉や魚は火を通せばそれなりに食べるが、困るのは野菜だ。生野菜を食べないと聞いていたので、焼いたりゆでたり蒸したり、ジュースにもしてみたが、野菜の気配を感じるだけでハシが止まる。

「ユキ、これ、なんや?」
「ハンバーグ、ですけど」
この部屋に通い始めて3日目の夕食に、ハンバーグを作った。生野菜は食べないと聞いていたので、ふかした小さなジャガイモとバターコーンを添えた。それは黙って食べるが、問題はハンバーグだ。

少しでも多く野菜を食べてもらおうと、パテに細かく刻んだニンジンとキャベツを加えて作った特製のハンバーグだ。ソースの味も濃い目にしたので野菜の味はしないはずだが、瑛朗は割ってひと口だけ食べたハンバーグの断面を指ししめす。
「これ野菜がぎょうさん入ってるやろ。なに入れてん?」
「すみません。あの、ニンジンとキャベツ、です」
小さな声で、正直に告げる。

とたんに瑛朗は眉間にシワを寄せる。
「そんなん入んといてええ。俺は普通のハンバーグでええんや」
不機嫌な声で、皿を押し返す。
「ほな、野菜の入ってないのも用意してますさかい」
普通のパテで作ったハンバーグを出せば、割って中身を確認してから食べる。

「なんべんも言うてるとおり、野菜は出さんといてもええ」
忙しくハシを動かしながら、瑛朗はそう言う。
栄養のバランスを考えると、必要最低限は摂って欲しいが、それを瑛朗に進言する勇気は、由貴にはない。気難しくて頑固な瑛朗が、素直に聞くとも思えないし、瑛朗には近寄りがたい雰囲気がある。

いつもピリピリと神経を尖らせていて、少しでも気に入らない事があるととたんに厳しい口調になる。決して、声を荒げたり大きな身振りで威嚇するような事はないが、人見知りで内向的な由貴が気後れするには十分な迫力だ。

調理師免許を持ち、居酒屋の厨房でバイトしていた由貴だが、瑛朗一人の食事に頭を悩ませている。
・・・今日は、なんにしよ。
通い始めて1週間。まだ瑛朗の顔をまともに見て話せない。

ため息をついて、リビングへと通じるドアを開ける。
「失礼します」
一応、声をかける。が、返事のあったためしはない。昼前のこの時間、瑛朗は部屋にこもって仕事をしているはずだ。

キッチンに行こうと中へ入りかけた足は、しかしその場にピタリと止まる。広いリビングにあるソファに、男が座っている。
男は読んでいた雑誌から顔を上げて、じっと由貴の顔を見る。見知らぬ男だ。

「し、失礼しました」
慌てて由貴はドアを閉めて、廊下に戻る。住人の瑛朗でもなく、編集者の岸川でもない男が、どうしてこの部屋にいるのか。それとも部屋を間違えたのか。
混乱した由貴は、廊下に立ったまま動けなくなる。

するとドアが内側から開いて、さっきの男が顔をのぞかせる。
「入らへんのか?」
「え、あの、入りますけど。・・・先生は、いてはりますか?」
「は?」
しどろもどろの由貴の言葉に、男は一瞬不思議そうな顔を見せると、
「ボケてんと、早(は)よメシ作ってや、ユキ」
冷静な顔に戻ってそう言う。

「え、え?」
今、男は自分を”ユキ”と呼ばなかったか。という事は、この男は瑛朗なのか。
「も、もしかして、先生、ですか?」
由貴の知っている瑛朗は、髪はボサボサ、ヒゲはボーボー、ぶ厚いメガネをかけていて、うす汚れたパジャマを着ている年齢不詳のおっちゃんだ。

しかし、今目の前にいる男は、襟足にかかるほどの髪をキチンと束ね、丁寧にヒゲをあたったツルンとした顔にはメガネはかけておらず、切れ長の知的な目に通った鼻筋、意思の強そうな唇と、整った顔立ちをしている。
長身でバランスのとれた長い手足に、ブランド物のシャツと綿パンがよく似合っている。

まったくの別人だ。由貴は瑛朗の顔を見上げて、絶句してしまう。
「なんや、キツネにつままれたような顔して」
「あ、す、すみません」
言葉をかけられて、ようやく我に返る。口を開けて相手の顔を見つめるような不調法をしでかしていたと、由貴は慌てて頭を下げる。

「あの、先生のヒゲのない顔、初めて見たモンですさかい」
「ふうん」
しどろもどろの言い訳に、ひとつアゴを撫でる。
「まあ、ええわ。それより、早(は)よメシ」
「は、はい。すぐに」
返事をして、瑛朗のあとについてリビングに入る。

キッチンに荷物を置いてバンダナとエプロンを着けていると、来客を知らせる呼び鈴が鳴る。
「あ、僕が出ます。・・・はい?」
「岸川です」
「先生。岸川さんです」
伝えれば、頷く。許されて玄関を開ければ、ほどなく岸川が上がってくる。

「失礼します」
声をかけて入ってきた岸川は、由貴の顔を見ると優しく微笑む。
「いらっしゃいませ」
人見知りな由貴も、穏やかな岸川とは普通に接する事が出来る。小さく頭を下げて返事をする。
「ユキ。岸川の分もメシ用意してや」
「はい」
もとより、そのつもりだ。手早くできるチャーハンと水ギョーザの中華スープを作る。昼食の準備が出来るまでの間、瑛朗と岸川はソファに座って仕事の話をしている。

手を忙しく動かしながらも、由貴は何度も瑛朗の横顔を盗み見る。未だに信じられない。髪を整えヒゲをあたってメガネをはずした瑛朗の素顔が、あんなにも涼やかだったとは。歳も、思っていたよりずいぶんと若く見える。

何度目かに見た時、ちょうど顔を上げた瑛朗と目が合う。切れ長の目に見つめられて、一瞬、心臓が大きく跳ねる。
「なんや?」
「い、いえ。あの、もうできますさかい」
顔を伏せる。チラチラ見ていたのを気づかれて、恥ずかしくて耳まで赤くなる。

「けったいなヤツ」
そんな由貴に、瑛朗は呆れたようにそう言うが、岸川は、
「ああ。ヒゲのない先生が珍しいのんと違いますか」
言って、由貴を手伝おうとキッチンに入る。

「せやろ、イヌマくん」
「はい」
チャーハンと水ギョーザの入った中華スープを大皿に移して、由貴は頷く。相変わらず岸川は由貴を”イヌマ”と間違った名前で呼ぶが、今さら訂正する気もない。

「先生は原稿の締め切りが近づくと、とたんに身なりに構わへんようになるさかいなあ」
取り分け用の小皿を準備しながら、岸川は続ける。
「いつもは、こんなにイケてんのに」
「アホか」
打ち合わせに使った資料をまとめて、瑛朗はテーブルにつく。

「やや言うてんと、早(は)よメシにするで」
「はいはい」
岸川は由貴と顔を見合わせると、小さく笑って瑛朗にチャーハンを取り分ける。
「ユキ。今日のは野菜、隠してへんやろな」
「はい。あ、水ギューザにニラと白菜が入ってます」
「まあ、ええわ」

そのくらいは許容範囲なのだろう。瑛朗は頷くと、いただきますと手を合わせて食べ始める。
見た目だけではない。雰囲気もずいぶん違う。ピリピリと尖った空気がなくなり、いくぶん穏やかな口調になっている。

「相変わらず、野菜はアカンのですか?」
「そうや」
「イヌマくんも、献立考えんの苦労するやろ?」
「はあ、まあ」
「こう見えて、ユキは俺に野菜食べさせようと、あの手この手を使(つこ)てくるさかいな。油断ならへんね」

昨日までと同じ事を言われていても、声の響きが全然違う。触れれば感電してしまいそうなくらい気の張った瑛朗よりも、今の瑛朗の方が何倍もいい。
由貴はこっそり、そう思う。

「先生。あんまりイヌマくんを困らせんといてくださいよ」
「わかった」
「こないだ僕に、メシが美味いさかい原稿が早(は)よ上がったて、言うてたやないですか」
「アホか、岸川」
暴露する岸川の言葉に瑛朗は素早く反応するが、怒っている様子はない。

「ホンマですか、先生?」
「ああ。ユキの作るメシは、美味い」
真面目な顔で言って、ニヤリと笑う。
「ありがとうございます」
飾り気のない素直な瑛朗の言葉に、由貴は大きく頭を下げた。




  2013.09.21(土)


    
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