瑛朗にキスされた。

呼ばれてコーヒーを持っていけば、手を取られて抱きしめられソファに押し倒された。いきなりの出来事に驚きはしたが、瑛朗が自分をそんな風に欲していると思うと、嫌な気持ちはしなかった。
だが瑛朗の目的は自分に触れる事ではなく、小説の参考にするためだと聞いて、反射的に瑛朗の手を拒んだ。
拒んだはずなのに、キスされていた。

・・・あのキスは、いったい、どういう意味なんやろ。
無意識に自分の唇を指先でなぞる。
「・・・キ、ユキ」
「は、はいっ」
「ヤカン。お湯、沸いてる」
声をかけられ、手元をみる。ここは瑛朗の部屋のキッチンで、今はヤカンでお湯を沸かしているというのに、またあの時の事を考えていた。

慌てて火を止めて、ヤカンを握る。
「熱っ」
あんまり慌てて、熱くなった持ち手に指が触れる。反射的に手を引っ込めるが、指先に痺れが残っている。

「大丈夫か?」
由貴のあげた声に、わざわざ瑛朗はリビングからキッチンに入ってくる。
「だ、大丈夫です」
「早(は)よ、冷やせ」
言うなり、由貴の手をとって蛇口の下に持っていくと、勢いよく水を流す。
しばらくそうして、二人は物も言わずに流れる水を見つめる。

瑛朗にキスされて何日も経つが、瑛朗の態度は変わらない。意識している様子もない。フリではなく、完全に忘れているようだ。
瑛朗にとって、あんなキスのひとつやふたつ、騒ぐほどでもないのだろう。瑛朗は若く見えるが、自分とは倍近く歳が離れているはずだ。

大人の瑛朗が、子どもの自分をからかっただけ。そう考えると、胸が痛む。
「痛いか?」
「はい。・・・あ、いいえ」
手元を見て、すぐそばにいる瑛朗の横顔を見上げる。大人の、冷静な横顔。確かにあの唇が、自分の唇に触れた。

「なんや?」
視線に気づいて、瑛朗は瞳だけで由貴を見る。涼やかな瞳に見つめられて、由貴の胸は高鳴る。
「も、もう大丈夫ですさかい」
今さらながら、手を取られているのが恥ずかしくて、由貴は1歩遠ざかる。

「ヤケドの薬、持ってくるわ。それ塗っとき」
「はい。ありがとうございます」
自分の手を握り締める由貴を一瞥して、瑛朗はいったんキッチンを離れ、塗り薬を持ってくる。
座って指先に薬を塗りこむ由貴を、瑛朗は反対側のイスに座ってじっと見ている。

「あの、なんです?」
用があるのだろうか。黙っているのも心苦しくて、思い切って訊いてみる。
「ユキに、頼みがある」
「頼み、ですか?」
想像の外の言葉が出て、訊きかえす。

「近々、原稿の締め切りがくる。ほんで、締め切り前の1週間、ユキには通いやなくて住み込みで働いて欲しいねん」
「住み込み、ですか?」
瑛朗の目を見るが、冗談を言っている感じではない。

「普段はなんもせえへんかわりに、締め切り前に集中して書くのが、俺のやり方や。その間、昼も夜もない、寝る時間もバラバラやし、メシもそうや」
自分で言うとおり、締め切り前の瑛朗は寝食を忘れ身なりにも構わなくなる。別人のように神経質にもなる。

「今までは岸川に頼っとったんやけど、あいつも生意気に忙しなってて、そうそう俺ばっかりの面倒みる訳にはいかへんようや」
岸川は今の出版会社に勤め始めて以来、ずっと自分の担当編集者をしていて、もう長いつき合いだと瑛朗は言っていた。お互い駆け出しの頃からの仲で、自分が数々の話題作を世に出せたのも、岸川の尽力によるところが大きいとも。

人づき合いが苦手で気難しい瑛朗だが、岸川の事は本当に頼りにしているようだ。由貴から見ても、瑛朗と岸川は友だち同士のような印象を受ける。
「せやから、しばらくユキが住み込みでけへんか、と」
頼りに思う岸川に自分の面倒をみてもらえないのは、瑛朗にとって心細い事なのだろう。仕事にも支障が出るかもしれない。

雇い主である瑛朗の役に立ちたいと思う。少しは頼りにされていると思えば、なおさらそうだ。住み込みといっても、仕事をしている間は瑛朗は自分の部屋にこもりきりになるので、1日のうちの拘束時間はそう長くない。

だが、
「アカンか?」
どうしても、承諾できない。
瑛朗は忘れたかもしれないが、瑛朗にキスされた事が由貴の頭から離れない。

うつむいて唇を噛んだ由貴の顔を、瑛朗はのぞきこむ。
「イヤか?」
顔を見られたくなくて、由貴は反対を向く。と、瑛朗も反対側からのぞきこむ。
「俺は原稿を始めると、あんまり集中しすぎて神経質になるさかいな。それが気詰まりなんか?」
首を振る。
「部屋はどこでも空いてるトコ使(つこ)たらええ。ヒマな時は、好きなだけ庭いじりしててもええ」
それにも、首を振る。

「日給も上げる。時間外手当もはずむ」
「そうと違うんです」
カネの話が出て、思わずそう答える。
「ほな、なんでアカンのや?」
瑛朗の声には苛立ちが含まれている。納得のいく理由を聞かねば諦めないと、暗にそう言っている。

「そ、それは」
「それは? なんや?」
「それは、先生が僕にキ、」
からかうようにキスをして、そのあとまったくその事に触れようとしないからだ。もう一度同じ事をされて、平気でいられるほど自分は大人ではない。

そう伝えようとするが、瑛朗相手にどう説明すればいいのか。困って由貴は瑛朗の口元を見る。
「キ・・・キス? ああ」
切れ切れの由貴の言葉に、瑛朗はようやく思いあたったようだ。
「こないだのコト、言うてんのか」
やっぱり瑛朗にとって、たいした事ではなかったらしい。

「あれ、イヤやったんか?」
「あ、当たり前です」
嫌ではない。だが、期待してもいけない。からかわれて落ち込むのは、もうゴメンだ。
「あんな、いちびり。イヤに決まってます」

「ふうん」
まともに顔が見られない。顔を見れば、またキスの感触を生々しく思い出してしまうかもしれない。もっと触れられたいと、見透かされてしまうかもしれない。
「ま、ええわ」
そんな由貴の気持ちを知ってか知らずか、瑛朗はヒザを叩いて立ち上がる。

「ユキがイヤなら、セクハラまがいのコトはせえへん。これで、どうや?」
「す、少し、考えさせてください」
瑛朗にそこまで言われて、断る理由もなくなる。
「うん。けど、」
近づいて、強引に由貴の顔を上げる。

「キスひとつで、そない深刻になるやなんて。やっぱり、ユキは可愛いいな」
目を細める。
「そ、それ、セクハラです」
自分の戸惑いも、その奥にある淡い期待もすべて瑛朗にはお見通しのようで、恥ずかしいし、悔しい。
由貴は震える声で、ようやくそれだけ言った。



雇い主の瑛朗の部屋に住み込みで家事をする事を、一緒に暮らす祖父母に伝える。祖父母はずいぶん気に入られ信用されていると、喜んで賛成した。
同じ事を岸川にも伝える。
「いや、正直なトコ、先生のお世話をイヌマくんがしてくれたら、めっちゃ助かる」
「そんな、大げさな」
仕事の打ち合わせに来た時に伝えれば、ホッとした顔を見せる。あまりにも大げさな反応に、由貴はにが笑いする。

「いや、大げさと違う。先生の原稿が締め切りまでに上がれへんかったら、わが社にとって死活問題やさかいな」
「はあ」
庭に水をまきながら、話半分に聞く。

「イヌマくんがいてくれるコトで、僕も先生も、ずいぶん助かってんね」
「そうですか」
岸川はしきりに誉めてくれるが、由貴には実感がわかない。締め切り前になった瑛朗は、また身なりに構わなくなり、食事も寝る時間もバラバラで、触ると感電するくらい神経質になっている。
そんな瑛朗が感謝しているとは思えない。

「イヌマくんも、初めて来た時より余裕のある顔、してるな」
岸川に指摘されたとおり、前回よりは落ち着いている。右も左も分からないまま、いきなり締め切り前の瑛朗の世話を頼まれて戦々恐々としていた頃より、いくらか瑛朗という人間に慣れたからだろう。
「そう、ですね」
あいまいに頷いておく。

「うん。・・・それより、ここキミが世話してんのんか?」
岸川は腰に手を当てて、庭を見回す。もともと緑は多かったが世話が行き届いておらず、雑然としていたこの庭は、由貴が手を入て見違えるようにサッパリとなっている。
「はい。先生に許可いただいて」
雑木や草花の緑が目に優しく、ますます居心地のいい空間になっている。これだけは由貴も胸をはって自慢できる。

「先生が? ええて言うたんか?」
岸川の声には、驚きが含まれている。
「え? アカンかったんですか?」
「いや、そうとちゃうけど」
最後は口の中でつぶやく。穏やかだが明快な口調の岸川にしては、珍しい事だ。余計に気になる。

「いや、まあ、先生がええて言わはったんやったら、ええんと違うか」
不安そうな顔を見せる由貴に、岸川は明るい声で言う。
「花以外にも、いろいろと植えてんのやな」
「え、ええ」
新しく追加したプランターの前にしゃがんで、しきりに由貴に話しかける。

庭いじりに興味のない瑛朗が、こんなにも緑あふれる庭を持っている事と、その庭が世話をされないまま放ったらかしになっていた事と、岸川はその理由を知っているのかもしれない。
だが、自分にその理由を説明する気はないようだ。由貴もあえて訊かない。
それは瑛朗にとって、簡単に他人に触れて欲しくない部分のように思えたからだ。

「イヌマくん」
「はい?」
並んでプランターをのぞきこむ由貴を、岸川は優しく呼ぶ。
「先生のコト、よろしく頼むで」
「・・・はい」
その言葉は、単に瑛朗の食事の世話だけではなく、もっと深い意味を持っているように由貴には聞こえた。




  2013.09.28(土)


    
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