由貴は父親の顔を知らない。
母親は由貴を生んですぐ実家に預け、他所に働きに出た。以来、祖父母に育てられている。
今は外国に暮らし旅行会社に勤務して、日本人観光客向けのツアーを担当している母親からは、電話もメールも手紙すらめったに来ない。年に一度顔が見られればいい方だ。

小さい頃は祖父母を両親、母親は歳の離れた姉と思っていたが、中学校に上がる時に見た戸籍で事実を知った。
片親なのも祖父母に育てられるのも、珍しい事ではない。驚きはしたが、そんなものだと納得した。勉強の苦手な自分を高校まで出してくれた祖父母には感謝しているし、手に職をつけるようにと薦められて調理師の道を選んだ事も後悔していない。

自分を放って外国で働く母親に対して、マイナスの感情を持っている訳でもない。事実を知った今でも、母親というよりも姉か親戚の叔母くらいの距離感しかない。
父親の話を聞いた覚えはない。祖父母も母親も、父親については何も話さなかったし、聞いてはいけない雰囲気だった。

父親という存在が、由貴の中からは抜け落ちている。
だから由貴は年上の男性に抱かれるたびに、父親の腕に抱かれるというのはこういう感覚なのかと、いつも思う。

・・・けど先生の腕は、お父ちゃんの腕とは思わへんかったな。
ほほに太陽の温かみを感じる。いつの間にか夜が明けたようだ。
由貴は少しだけ目を開ける。隣に、瑛朗が眠っている。眠る瑛朗の横顔を眺めながら、ぼんやりと思う。
・・・なんで、やろな。
ため息をつく。とたんに、体のあちこちに痛みを覚える。由貴は顔をしかめると、眠る瑛朗を起こさないよう、静かにベッドに身を起こす。

昨夜、瑛朗に蹂躙された。
瑛朗は由貴の体をむさぼり、許して欲しいと懇願し涙を流す由貴を何度も何度も頂点に導いた。甘くて残酷な快感の爪痕が、由貴の体のあちこちに残っている。
瑛朗は自分に特別な愛情を持っていて、行為に及んだ訳ではない。十分わかっている。理由を強いてあげれば、瑛朗の嗜虐心に自分が火を点けたからだろうか。特に深い理由はないはずだ。

瑛朗の手や腕や舌は、”与える”ためではなく”奪う”目的で動いていた。
・・・酷い、人。けど、憎めへん。
瑛朗から容赦なく奪われても、嫌ではなかった。
・・・アホやな、僕も。
自嘲気味に笑って、ベッドからおりる。瑛朗にバラバラにされた体を短い睡眠でつなぎ合わせるが、まだ十分ではない。ベッドから降りるだけで、足元がふらつく。

バランスを崩して、思わずベッドに手をつく。その反動でベッドが軋む。
「ん・・・」
瑛朗が小さく息を吐く。起こしてしまっただろうか。顔を見れば、ゆっくりと目が開く。
「朝か?」
半覚醒の低い声だ。

「はい」
返事をすれば、だんだんと目の焦点が合ってくる。
「ユキ、か?」
「はい」
下着も履いていない由貴を見て、ようやく昨夜の事を思い出したのだろう。
「そうか」
小さくつぶやいて、ため息をつく。

「僕、着替えてきます」
昨夜の行為は、愛情からの行為でない事くらい百も承知だ。さっきもそう思ったばかりだ。だが、瑛朗自身から念を押されるように”ユキか”と訊かれて、ため息をつかれると、さすがに辛い。

由貴は逃げるように瑛朗の寝室を出ると、自分の部屋に戻る。
瑛朗に、からかうようなキスをされた。もう一度キスして欲しいと思った。唇だけではなく、もっとたくさんキスして欲しいとも。そんな自分の願いがかなったのに、つらい。
ドアに背を預け、その場に座り込む。

両手で顔を覆う。握り締めたコブシに、力が入る。
・・・僕は、先生が好きなんや。
そう、初めて”ユキ”と呼ばれて見つめられた時にはもう、瑛朗に恋をしていた。父親を知らないからだろうか、由貴はいつも年上の男性に惹かれた。最初は気難しく神経質な瑛朗に気後れを感じたものの、一緒にいるうちに瑛朗の優しさや繊細さに、だんだんと惹かれていった。

からかうようにされたキスが嫌でなかったのも、唇以外にももっと触れて欲しいと思ったのも、瑛朗に惹かれているからだ。
だが、瑛朗の腕からは好意ではなく、欲望しか感じられなかった。恋人である桐生を帰して、たまたま手近にいた自分で発散しただけだ。
「う・・・」
それが、たまらなくつらい。

・・・僕はこれから、どんな顔して先生と接したらええねん。
思ったところで、ドアがノックされる。体をすくめて、息をひそめる。
「ユキ」
瑛朗が呼んでいる。普通の声で返事をして、平気な顔でドアを開けなくてはいけない。それは分かっている。
だが、今の由貴には出来ない。

「ユキ。開けてんか。いてんのやろ」
2度、呼ばれる。返事だけでもして、この場をやりすごさなければ。頭ではそう考えるが、乾いたノドからは声が出ない。
「・・・まあ、ええわ」
ため息交じりにそう言うと、瑛朗はドアの向こうに座り込む。

「ユキ、俺の話を聞いてんか」
聞きたくない。だがドアに背を預けるようにして座る瑛朗の声は、嫌でも耳に入る。
「昨夜のコト、ちゃんと思い出した。桐生を帰したあと、俺はユキを抱いたんやな」
そのとおりだ。
「謝る。かんにんな」

「なんで?」
瑛朗は謝って、自分との行為を無かった事にしたいのだと思ったとたん、反射的に、言葉が口から出る。
「なんで、て」
由貴の問いに、瑛朗は答える。
「ユキにセクハラせえへんていう約束、破ったからや。それに関しては、謝る」

「え」
予想外の答えが返ってきて、由貴は困惑する。
「ユキはイヤやったんやろ? せやから、怒ってしもたんやろ?」
「先生それは、」
行為自体が嫌なのではなく、愛情もなく欲望を発散するために抱かれたのがつらいだけだと、瑛朗に説明しようとして、口をつぐむ。

そんな事を言えば、瑛朗に自分の想いを悟られてしまう。家事以外何の取得もなく、人見知りで内向的、おまけに歳も倍近く離れている自分の想いなど、瑛朗にとっては迷惑なだけだ。
その考えが、由貴の口に枷をする。
「なんや? 言いたいコトが、」
言ったとたん、瑛朗のお腹が盛大に鳴る。

数瞬ののち、たまらず瑛朗は吹き出す。
「アカンアカン。深刻な話なんぞ、性に合わへんな」
絶妙の間に、由貴の毒気も抜かれる。
「腹へってしもた。ユキ、朝メシ」
「はい」
ともかく、自分の職分は全うしなければならない。由貴は一度だけ深呼吸して、ドアを開いた。



朝食はトーストしたパンにハムエッグ、濃い目のコーヒーを用意する。
「どうぞ」
「うん」
真剣な局面を茶化すように空腹を訴えたはずの瑛朗は、だが、由貴の顔を見つめるばかりで手をつけようとはしない。

「あの、先生。食べはらへんのですか?」
「ユキ。まだ怒ってんのか?」
つらくないと言えばウソになるが、怒っているのとは違う。由貴は小さく頭を振る。
「そうか」
その様子を見て、瑛朗はホッとしたような顔をする。

昨夜は自分の抵抗など無視して、それで平気な顔をしていた瑛朗が今、どうして自分の感情を気にかけているのか。その差に、由貴は小さく笑う。
「なに笑(わろ)てん?」
「いえ。先生が僕なんかの気持ち、気にしてはんのが可笑しくて」
「あんなあ、ユキ」

真剣な顔で瑛朗は言う。
「俺はこういう性分やさかい上手く言(ゆ)えへんけど、ユキにはいつも感謝してる。ユキのメシは美味いし、細かいトコまで気が利く。もしユキがヘソ曲げてしもて、おらんようになってしもたら、ホンマに困るねん」
「そ、そうですか」
瑛朗からこんなに誉められたのは初めてだ。どんな顔をしていいのか分からず、目を伏せる。

そんな由貴の様子に、瑛朗は目を細める。
「ユキは、ええ顔をする」
「え?」
意味が分からず、瑛朗の顔を見る。と、目が赤く光っている。昨夜と同じ、肉食獣の光だ。

「ユキのそんな可愛い顔見たら、たまらんようになる。いじめて、泣かせたなるんや」
「けど、」
その言葉に、瑛朗が自分に欲情するのは、単に自分が瑛朗の性的嗜好に適した手近な存在だからだと、改めて認識する。
由貴はヒザに乗せたコブシを、強く握り締める。
「けど先生には、桐生さんていう恋人がいてるやないですか」

「恋人? 桐生が?」
由貴の言葉を、瑛朗は鼻で笑う。
「ちゃうちゃう。まあ、桐生とは気も合うし体の相性かてええから、たまに関係を持つけど、恋人とは違う。・・・それより、ユキ」
再び真剣な顔に戻る。
「ユキがイヤやなかったら、そういうコト込みで、ココにいてくれへんか?」

「それは」
どうやと、瑛朗の目が訊いている。さっきまでの余裕の消えた、真剣な目だ。
「それは、先生の助けになりますか?」
「当たり前や」

「・・・わかりました」
「そうか。おおきに」
小さく頷いた由貴に、瑛朗はニッコリ笑う。
愛情も見返りも何も要らない、ただ瑛朗の笑顔が見られればそれでいいと、由貴はそう決心した。




  2013.10.05(土)


    
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