由貴は、小説家というのは四六時中机に向かって物を書いているのかと思っていたが、必ずしもそうではないらしい。瑛朗は締め切り前になると身なりも構わず寝食も忘れて原稿にとりかかるが、締め切りが過ぎれば、ほとんど仕事部屋には入らない。
かと言って、どこかに出かける訳でもない。1日中部屋にいて、テレビを見たり本や雑誌を読んだりしている。たまに出かけても、行き先はフィットネスジムか本屋だ。すぐに帰ってくる。

由貴の見る限り、携帯電話を触っている事もない。もしかしたら、携帯電話を持っていないのかもしれない。部屋に訪ねて来るのは岸川だけ。固定電話にも、仕事がらみの相手からしか掛かってこない。

最初に感じたとおり、瑛朗は人づき合いが悪いようだ。一緒の部屋に居ても、ほとんど話す事はない。
だが、由貴にはかえってその方が気が楽だ。人見知りで、話しかけられても言葉がもつれて会話が続かない。顔を伏せて、言葉尻は口の中に消える。

「ユキ。コーヒー」
「はい」
だから瑛朗のように、用事だけ簡潔に言いつけてくれた方がありがたい。返事だけはハッキリして、由貴はコーヒーを淹れる。瑛朗は粗挽きした豆を濃い目にドリップしたコーヒーが好きだ。丁寧に抽出して、コーヒーカップに移す。

「どうぞ」
「おおきに」
リビングのソファに座って本を読んでいる瑛朗の前に、カップを置く。瑛朗は顔も上げずに、小さく礼を述べる。

リビングの向こうには広いルーフバルコニーがあり、目に優しい緑がたくさん植えられている。さながら空中庭園のようだ。しかし、瑛朗がバルコニーに出て植物の世話をしているところを見た事はない。
由貴は開け放たれたリビングの窓に寄って行って、植物の様子を見る。春から初夏へとうつる日差しのもと、枝を伸ばし葉を開いている植物もあれば、枯れているものもある。その雑然とした様子は、もうずいぶんと人の手が入っていないように見える。

「なに、見てん?」
熱心に見ていると、急に背後から声をかけられる。振り向けば、座っているとばかり思っていた瑛朗が、すぐ後ろに立っている。
「いえ、あの、庭を」
思いがけない近さに、言葉がもつれる。

「へえ。ユキは植物とか、興味あんの?」
「はい。あの、少し」
由貴の暮らす祖父母の家には、ネコの額ほどの庭がある。植物好きの祖父母は、そこにいろんな種類の植物を植えて世話をしている。由貴も幼い頃から祖父母の庭いじりを手伝ってきたので、このバルコニーの状態が気になって仕方ない。

「そうなん」
つぶやいて、瑛朗はバルコニーに出る。由貴もあとを追う。
「俺はこの空間は好きなんやけど、世話をすんのがしんどくてな」
「ほな、誰がこの庭を世話してんのです?」
初めてルーフバルコニーへ出たが、広いリビングよりも、まだ広い。確かに緑は多いが、それぞれ好き勝手に葉を伸ばしていて、雑多な感じがする。

「誰も」
つぶやいて枝に手を伸ばす瑛朗の横顔は、なぜか悲しげに見える。これだけの庭を造って世話をしないには理由があるのかもしれないが、由貴に言わせれば勿体ない。
「あの、この庭、僕が世話してもええですか?」
つい、言葉が口から出る。言ってしまったあと、出すぎた事を言っただろうかと、恐る恐る瑛朗を見上げる。

「せやな」
瑛朗はヒザをついて、プランターに咲く花をひとつ手折ると、立ち上がってその花の匂いを嗅ぐ。そして、自分を見上げる由貴の左耳に花を挿す。
「ユキの、好きにしたらええ」
ニッコリ笑う。

瞬間、由貴の胸は高鳴る。初めて見た瑛朗の優しい笑顔に、心臓は早鐘を打つ。瑛朗の顔から、目が離せなくなる。
「ユキ?」
「は、はい」
呼ばれて、由貴は慌てて顔を伏せる。

「あ、ありがとうございます。僕、キッチンに戻ります」
早口で言って、瑛朗に背を向けてリビングに入り、キッチンまで戻る。立ち止まって、自分のほほに手を当てる。熱く感じる。それにまだ、心臓は早鐘を打っている。
・・・先生て、あんな優しい顔もしはるんや。
ほほから手をずらして、左耳へ。そこには瑛朗が挿した花がある。手に取ってみれば、白く可憐な花だ。
目を閉じて、匂いを嗅ぐ。甘くて魅力的な香りがした。



瑛朗から許されて、由貴はルーフバルコニーに手を入れ始める。もともとはコンクリート打ちっぱなしの状態だったろうが、今は一面、木製の床材が敷きつめられている。さながら広いウッドデッキのようだ。その所々に大きな枠が設けてあり、土を盛って雑木や草花が植えてある。
専門家が時間と手間をかけて作りあげた、立派な庭だ。由貴はその景観を損なわないよう、自分なりに工夫する。

人と接しているよりも、植物を相手にしている方が気が楽だ。いったん庭に出てると夢中になりすぎて、瑛朗の世話がおろそかになる時もある。だが、そんな由貴を瑛朗は叱るでもなく、好きにさせてくれている。
初めて会った時、気難しくて神経質な人だと感じたのは、締め切り前だったからだろう。原稿を書いていない時の瑛朗は、もの静かで知的な雰囲気だ。

不精ヒゲを生やし、ぶ厚いメガネをかけた姿からは想像もつかなかったが、身ぎれいにしている瑛朗は目元が涼やかで整った顔立ちをしている。
ほとんど感情を表す事がないので、冷たい印象を受けるが、時々思い出したように優しい笑顔をうかべる。

瑛朗の笑顔を見るたびに、由貴の胸は高鳴って、ほほは熱くなる。そして、もっと瑛朗の笑顔が見たくなる。
「ユキ」
「はいっ」
部屋の中から呼ばれて、慌てて返事をする。庭の手入れをしながら、また瑛朗の事を考えていたようだ。

由貴は軽く頭を振って、リビングへ戻る。
「お呼びですか?」
「うん。コーヒー、淹れてんか」
「はい」
答えて、手を洗ってコーヒーを挿れる。瑛朗好みの、濃い目のドリップコーヒーだ。

「どうぞ」
「うん」
ソファに座る瑛朗の前に、コーヒーカップを置く。瑛朗はペンを持って、紙を片手に思案顔をしている。由貴にも生返事しかしない。

「先生?」
「せや、ユキ。そこ座って」
声をかければ、急に手を引かれて強引に隣に座らされる。ヒザとヒザとが触れるほど近い。手は握ったままだ。

「せん・・・」
そのまま引き寄せられ、抱きしめられる。一瞬の出来事だ。小柄な由貴は、長身の瑛朗の腕にスッポリと収まる。
・・・え、なんや?
反射的にもがいて、腕から逃れようとする。が、瑛朗はますます強く抱きしめて、由貴の抵抗を許さない。

ゆっくりと、由貴の体をソファに倒す。抱きしめられて、押し倒されて、瑛朗の体の重みを感じる。
どうして急に瑛朗はこんなコトをしたのか、これから何をするつもりなのか。まったく分からない。
「あ」
心臓が口から飛び出てしまいそうだ。ただただ驚いて混乱して、由貴は体の動きを止める。だが、嫌ではない。

瑛朗が自分とこんな風に触れ合いたいと欲した事が、嬉しい。由貴は瑛朗の気持ちに応えるように、自分から腕を伸ばして抱きしめようとする。
「ユキ、そうとちゃう」
耳元で瑛朗の声がする。冷静な声だ。

恐る恐る目を開けば、瑛朗は冷静な目で自分を見おろしている。
「手はこう。ほんで体をこう横に向けて」
言いながら、由貴の手を顔に持っていき、体を横にひねる。そして体を起こすと、ペンと紙を手にする。

瑛朗の様子を指の間からのぞき見れば、真剣な顔で紙に何か書いている。
「あの、先生?」
不安な声で呼べば、紙から顔も上げずに答える。
「今、小説のシーンを考えてんけどな。どうしても押し倒された女の動きがわからへんで」
「え?」
混乱した頭で、一生懸命に今の言葉の意味を考える。瑛朗が自分を抱きしめたのは、自分に対して特別な感情があったからではなく、単に小説の描写に生かすために過ぎないと、そう言っている。

「イヤ!」
そう考えついたとたん、由貴は腕を突っぱねて瑛朗の体を押しやる。虚をつかれた瑛朗は、ソファに尻もちをつく。
「やめてください」
自分でも驚く程の、強い拒絶を含んだ声だ。

瑛朗に抱きしめられて、もしかしたら瑛朗は自分に触れたいのではないかと思った。そして、自分もまた瑛朗の重みをもっと感じたいと思った。
勘違いをして、自分だけ胸をときめかせて、瑛朗を抱きしめようとしていた。
それがたまらなく恥ずかしい。

由貴は両手で顔を覆う。恥ずかしくて、どうしていいか分からなくて、ただ体を小刻みに震わせる。
「ユキ」
冷静な声で呼ばれる。が、返事はしない。
「顔、見せて」
「イヤです」

と、ソファが軋んで、手の甲に温かさを感じる。
「え?」
驚いて、由貴の手から力が抜ける。手首をとられて、ゆっくり顔からはがされる。薄く目を開ければ、すぐそばに瑛朗の顔がある。
「かんにん」
つぶやいて、瑛朗は由貴の手首に口づける。

「あ」
さっき手の甲に感じた温かさと同じだ。ほんの一瞬、唇で触れられただけなのに、そこから甘い痺れが拡がっていく。声が、もれる。
恥ずかしいと思った瞬間、アゴをとられて、瑛朗の顔が近づいて、
「ん」
唇が、重なる。

・・・キ、キス?
軽く吸われて、離れる。今、瑛朗にキスされなかったか。冷静に考えようとするが、混乱してしまって、体を起こす瑛朗の顔を見つめる事しか出来ない。

「ユキて、可愛いいな」
瑛朗は目を細めて、舌で自分の唇をなぞった。




  2013.09.25(水)


    
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