瑛朗の部屋を出た由貴は、祖父母の家に戻る。祖父母には心配をかけないよう、休みをもらったと説明した。そして、岸川には瑛朗の家政婦を辞めると伝える。岸川の携帯電話の番号を知らないので、出版社に電話して伝言を頼んだ。
昨日の事だ。

由貴は台所に立って、火にかけた鍋の様子をみる。鍋の底に敷いたコンブから、いい出汁が出ている。これに大振りのイリコを足して、具沢山のみそ汁にしよう。庭には祖父母が丹精込めて育てている夏野菜が実っているはずだ。ナスとカボチャを採って、冷蔵庫にあった厚揚げを適当に切って、万能ねぎを散らせば完璧だ。
あとは魚の干物と冷奴と、夕飯の献立が決まる。

・・・先生は、ちゃんと食べてはるやろか。
鍋に味噌をときながら、由貴は考える。子どもではないので、デリバリーを頼んだりコンビニ弁当を買ったり、そのくらいの知恵はあるだろう。最悪、岸川に頼っているはずだ。
飢え死にするような事はないと思う。

いや、そう言えば、岸川は出張中ではなかったか。出版社に電話した時に、そう聞いた。だから由貴も伝言を頼んだ。瑛朗も、岸川とは連絡がつかないかもしれない。
そろそろ、次の締め切りも近づいている。締め切りが近くなると、瑛朗は寝食を忘れ、昼も夜もなく原稿に没頭する。自分や岸川がいる時は別だが、一人だと何も食べていない可能性もある。

・・・さすがに、それはないやろうけど。
由貴はにが笑いして、みそ汁の味をみる。コンブとイリコの出汁と新鮮な夏野菜の甘みとで、バランスのとれた味だ。
・・・先生好みの味や。これなら、先生も食べてくれはるわ。
考えて、ハッとする。今自分がいるのは祖父母の家で、瑛朗の部屋ではない。今作っているみそ汁も祖父母と一緒に夕飯を摂るための物で、決して瑛朗のための物ではない。

力なく笑って、由貴は火を止める。
あの広い部屋で、瑛朗は今、何をしているだろう。何も告げず勝手に去ってしまった自分に、腹を立てているだろうか。寂しい思いを、しているだろうか。それとも、すでに新しい家政婦を頼んで、自分の事など見限ってしまっただろうか。

鋭い痛みが、胸を襲う。
瑛朗と一緒にいて、大きな腕の中があまりにも居心地よかった。”このままずっと一緒にいたい”と真剣な声で言われた時、嬉しくて全身が震えた。”僕も同じ気持ちです”と、あふれそうになる気持ちを、必死で押さえこんだ。

瑛朗がどういう意味でそう言ったのか、由貴には分からないが、自分と同じように恋愛感情を抱いているとは思えない。
瑛朗にとって自分はあくまでも割り切った相手、手近にいて面倒もなく欲望を発散できる相手、それだけの存在だ。
それに瑛朗は父親、かもしれない。

だから、瑛朗の部屋を出た。
一緒にいるのは幸せだが、それ以上につらい。
・・・けど、つらくて部屋を出たはずやのに、なんで今の方がつらいんやろ。

瑛朗の顔が見たい。いつもは気難しくて神経質だが、時に優しい笑顔を見せてくれた。
瑛朗の声が聞きたい。穏やかな低い声、からかうような声、余裕のない声。瑛朗に呼ばれるだけで、耳の奥が甘く痺れた。
瑛朗の手に触れたい。大きくて温かくて、時に激しく残酷に自分を嬲り、時に優しく慈しむように自分を抱いた。

・・・先生に、逢いたい。

由貴は固く目をつぶる。唇をきつく噛む。自分で自分の体を抱く。そうでもしないと、瑛朗への想いがあふれてしまいそうだ。
・・・先生!

その時、出し抜けに由貴の携帯電話が着信を知らせる。瑛朗からだろうか。いや瑛朗は由貴の番号は知らないはずだ。そもそも携帯電話自体、持っていない。
「は、はい」
由貴は首を振って、電話に出る。

「由貴ァ?」
女性の声だ。
「え、お母ちゃん?」
間違いない。由貴の母親で、外国で働いている由紀の声だ。
「そうや。あんたのお母ちゃんや」

由貴を生んですぐ実家に預けて働き始め、今では外国で旅行会社に勤めている。年に一度も顔を合わせる事もなく、めったに電話やメールもよこさない由紀が、いきなり携帯電話に連絡してくるとは、何事だろう。
「元気か?」
「はあ、まあ」
母親とはいえ、由貴にとっては親戚の叔母さんのような存在だ。一定の距離を保って話す。

「なんや、相変わらず小(ち)っこい声やな」
電話の向こうで、由紀は相変わらず大きくて張りのある声だ。
「あんた、調理師免許もろたんやてな。おめでとう」
専門学校を卒業したと同時に調理師免許も取得したが、半年も前の事だ。
「ありがとう、ございます」
困惑しながら、小さく頭を下げる。

「わざわざ、それを言うために電話を?」
「それもあるけど。お母ちゃんなあ、今度こっちで結婚すんね」
急な話に多少は驚いたが、母親である由紀が自分の知らない土地で自分の知らない人と結婚すると聞いても、何の感慨もわかない。
「はあ、そうですか」

「そうですか、て。母親が結婚するていうのに、それだけかいな」
あまりにも淡々とした反応に、不満げな声だ。そう言われても、母親という認識がない以上、仕方がない。
「他になんぞ、言うコトがあるんと違うか?」
言われて、ふと思う。今なら、自分の父親がどこの誰なのか、教えてくれるのではないか、と。

「お、お母ちゃん」
「なんや?」
父親は誰なのか、訊きたい。由紀の口から、瑛朗以外の名前を告げて欲しい。
「僕、僕・・・お母ちゃんに会いたい、かも」
だが、どうしても訊けない。今までもそうだったように、由紀が正直に教えてくれるとは限らないし、それに瑛朗の名前が出るのが怖い。

「えっ?」
「いや、冗談です」
一度大きく深呼吸して、声の調子を変えて言う。
「結婚のコト、おじいちゃんとおばあちゃんに伝えときます。ほな」
通話を切る。父親であろうとなかろうと、瑛朗は諦めなくてはいけない相手だ。自分も母親も、お互いに嫌な思いをしてまで真相を知らなくてもいい。

由貴は手に持った携帯電話をポケットにしまうと、居間にいる祖父母を呼んだ。



その翌日。祖父母は揃って泊まりがけで温泉旅行へ行く。由貴がいれば庭の世話は大丈夫と、大喜びで出かけていった。
狭い家だが一人でいると広く感じる。本当は何をする気力もないが、じっとしていると瑛朗の事ばかり考えてしまうのがつらくて、無理に体を動かす。

今もネコの額ほどの庭に出て、夕方の水やりをする。まんべんなく植物に水を与えながら、由貴は瑛朗の庭の事を考える。
マンションの最上階にある空中庭園は、瑛朗が恋人だった人と一緒に造ったと聞いた。その恋人が去って荒れ放題になっていた庭を、瑛朗に許されて自分が世話を始めた。
気持ちのいい庭だと瑛朗が誉めてくれるまで回復した空中庭園は、自分が去って、再び荒れるだろうか。

荒れた庭を見て、瑛朗はまた、寂しそうな顔をするのだろうか。
考えると、つらい。だから、考えないようにする。
・・・僕やなくても、なんぼでも庭の世話をする人はいてる。僕やなくてもええんや。
そう思い込む。

隅々まで水をやり終わったところで、玄関口に人の気配がする。宅配業者だろうか。由貴は麦藁帽子を脱いで庭から上がると、玄関へ回る。
「はい、どちらさまですか?」
刷りガラスに小柄な女性のシルエットが映っている。いぶかしく思いながらも、カギを開けて引き戸を引く。

「由貴ァ、帰ってきたで」
「お、お母ちゃん!?」
小さなバックをひとつ持っただけの簡単な格好で立っていたのは、間違いない母親の由紀だ。だが由紀とは昨日の夕方、電話で話したばかりだ。外国にいるはずの由紀が、なぜ目の前にいるのか、由貴は混乱して固まってしまう。

「久しぶりやな、由貴。あんた、ちょっとも大きなってへんな」
由紀と最後に会ったのが高校を卒業した時なので、2年ぶりになる。相変わらず大きくて張りのある声で、ハッキリとしたものの言い方をする。
「なあ、おじいちゃんとおばあちゃんは?」
「泊まりで、温泉旅行に行きました」
「そうか。ともかく上げてや」

言うなり玄関に入り、靴を脱いで上がる。
「お茶、淹れてんか。美味しい日本茶が飲みたい」
混乱した由貴は、言われるがままお湯を沸かして緑茶を淹れる。
「ああ。美味しい。やっぱり水がええと、お茶も美味しいなあ」

「あの、なんで急に帰ってきたんです?」
由紀が緑茶を飲む間に、ようやく言葉がはさめる。
「なんで、て。そら、あんたが電話口でつらそうな声してたからや」
「え」
由紀の指摘に、ドキリとする。幼い頃から離れて暮らし、母親らしい事は何ひとつしなかったくせに、声だけで自分の精神状態が分かるなんて。
「それで、片道10時間以上かけて、帰ってきたんですか?」

「あったり前や」
緑茶をひと息に飲み干して、湯飲みを置く。
「今まで一度も泣き言を言うたコトのない子が、つらそうな声で”お母ちゃんに会いたい”て言うてんのやで。お月さんからでも帰ってくるわ」
「さすがに、お月さんはないでしょう」
大げさだが優しいもの言いに、由貴は小さく笑う。

「旅行会社、なめたらアカン」
「ホンマですね」
小さく笑いながら、由貴は2杯目の緑茶を淹れる。遠い存在だった由紀を、初めて近くに感じる。
「あんた、なんぞつらいコトがあったんか?」
「はい」
瑛朗を好きになってはいけなかったのに、焦がれるほどに好きになってしまった。瑛朗は売れっ子小説家のセオヒデロで、自分の雇い主で、歳も倍近く離れていて、おまけに父親かもしれない存在だ。

「お母ちゃんに、話してみいひん?」
「・・・いえ」
由紀はそう言ってくれるが、話す気はない。小さく首を振って、緑茶をすする。
「まだまだ子どもやて思てたのに、あんた、そんな顔するようになったんやな」
感慨深く言う由紀の顔を見る。由紀は複雑な表情をうかべている。
「あんたの顔、憂い顔や。一人で、つらい思いしてたんやな」
「はい」
瑛朗への想いは、誰にも告げられない。

「なあ、由貴」
しんみりとなった空気を払拭するかのように、ことさら明るい声で由紀は言う。
「日本に居づらいんやったら、あんたもお母ちゃんと一緒に行くか? あんた調理師免許持ってんのやろ。向こうは日本食が流行ってるさかい、なんぼでも働き口はあるし」
日本を出て、まったく知らない土地でイチから始める。それもいいかもしれない。

「なあ。そうしい」
考えさせて欲しいと、言おうとしたところで、玄関の呼び鈴が鳴る。




  2013.10.23(水)


    
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