祖父の3回忌法要の頃はまだ気の早い梅も咲いていなかったのに、今は桜の花が満開に咲き誇っている。彬との同居が決まってから新学期まで待ちきれず、大樹は春休みの間にあらかた自分の荷物を運んでしまう。
「んーっ」
ベランダに面した南向きのリビングが、一番日当たりがいい。大樹は大きく窓を開けて、温かな春の空気を胸いっぱいに吸い込む。

ベランダから見えるすぐ前の公園やそこかしこに、満開の桜がピンク色の塊を連ねている。
彬が勉強をするにはいい環境と言った通り、このあたりは小中学校や公園、緑地帯、図書館に市営体育館が近所にあり、市内でも文教地区となっている。
このマンションも古い建物ではあるが、そのぶん住民の入れ替わりも少なく顔なじみが多い。
多少、駅から遠いのが難点ではあるが、大樹は大学までバイクで通っているので問題ない。

温かな春の日差しを浴びながら、大樹は部屋に掃除機をかけてまわる。
玄関を入って長い廊下の右側が彬の部屋だ。左側の物置に使っていた部屋を片づけて、大樹が使う。同じ並びに風呂とトイレがあり、廊下の先の扉を開ければ広いリビングになる。
リビングに面した和室は、元は祖父母が使っていたのだが、今は客間となっている。

さすがに彬の部屋は遠慮するが、大樹は全部の部屋に丁寧に掃除機をかける。几帳面でキレイ好きの彬が暮しているだけあって、どの部屋もキチンと整頓されており、清潔で居心地がいい。
「よし、と」
掃除機をとめて、部屋の中を見回す。テーブルもイスも歪みなく配置され、床もチリひとつ落ちていない。カーテンのヒダさえ、規則正しく畳んである。

同居といっても彬は仕事がら出張が多く、月の半分近く家にいない。彬がいない間は大樹が一人で留守番をする。
食費は入れるにしろ、家賃がわりに家事をしてくれればいいと彬から提案されたが、掃除も洗濯も食事の用意も、大樹には苦にならない。
敬愛する彬のそばで寝起きできて、おまけに一人暮らし気分も味わえるこの環境に、大樹は充分満足している。

そして、大樹が彬の部屋に越してきて、2ヶ月ほど経った5月下旬。
その日はあいにく朝から小雨が降っていて、洗濯物がベランダに干せない。仕方なくリビングに吊って乾かす。下着やシャツなど薄手の物ばかりなので、この方法でもそこそこ乾くはずだ。

干し終わった洗濯物を見上げて、大樹はもう一度、携帯のメールをチェックする。彬からのメールはない。という事は、今夜は予定通り帰ってくる、という事だ。
几帳面な彬は、出張に出る時には必ず帰ってくる日時を大樹に伝えておく。食事が要るか要らないかも、もちろん伝える。その予定が変わった時には、速やかに連絡してくれる。
食事の用意を任されている大樹としては、ありがたい限りだ。

逆に自分も講義や実験で遅くなりそうな場合には、彬にメールしておく。
そうしておけば、お互い余計な心配をしなくてもいい。どちらかが言い出したわけではないが、いつの間にか暗黙のルールとして成り立っている。
実家から通っていた頃、母親である浩子から毎日のように、何時に帰るのかご飯は食べるのかドコに行くのかと、うるさいくらい訊かれていたのに比べれば、彬とのこのルールは自分を大人として扱ってくれているようで、そこもまた大樹には嬉しい。

今夜、彬が帰ってくるのであれば、彬の好物を作ろう。部屋をキレイに片づけて好物を作って待っていれば、きっと彬は喜んでくれるはずだ。そう考えると、顔のニヤニヤがとまらない。
大学での講義の間も献立を考えて、終わると同時に近所のスーパーで買い出しをして帰る。
「よっ、と」
バイクをマンションの駐輪場に停めて、ヘルメットを脱ぐ。小雨が降るのでカッパを着て行ったが、脱いでリュックの中からタオルを出して丁寧に水気をふきとる。
今日はアジのいいのがあった。刺身とフライにすればビールのツマミになる。それに貝のミソ汁と海草のサラダをそえれば、バランスのとれた夕飯が出来そうだ。

大樹は上機嫌に上階まであがる。
「ただいま…ん?」
ポケットからカギを出してカギ穴にさすが、開錠しなくても玄関ドアは開く。
…え? カギ、閉め忘れたんか?
ドアを開け中に入って、さらに驚く。

玄関にはドロだらけの靴が脱ぎ捨ててあり、そこから奥に向かって、靴下、上着、パンツ、シャツ、下着まで点々と廊下に落ちている。大樹は自分も靴を脱ぐと、忍び足で服をたどる。
どうやらこの服の中身は、風呂場を使ったようだ。開けっ放しになっている風呂場を覗けば、畳んで重ねておいたタオルはグシャグシャに乱れ、脱衣場もビショビショに濡れている。

一瞬、彬が帰って来ているのかとも思うが、強く頭を振って否定する。キレイ好きの彬が、こんなだらしない事をするわけがない。
…ほな、誰が?
不安と疑問でいっぱいになった大樹の耳が、リビングの物音をとらえる。靴と服を脱ぎ散らかし、風呂場をビショビショにした張本人は、リビングにいるようだ。

大樹は念のためカサを手に持つと、静かにリビングの戸を開ける。明かりの点いたリビングにはテレビの音が大きく響いている。大樹は体を半分だけ入れて、そっと見回す。
と、こちらに背を向けて男がソファに座っている。明るい髪の色をした、見知らぬ男だ。
「あの…」

「ああ、彬。帰ってきたか」
人の気配に気づいたのか、男は軽く手を上げる。
「俺、腹へってんね。なんぞ、食わして」
そう言って振り向いた男は、大樹の顔を見て一瞬驚いた表情をうかべる。

大樹は大樹で、彬の名前を呼ぶこの見知らぬ男にどう接していいか、思考が凍りついてしまう。
「おまえ、誰や?」
二人はしばらくお互いの顔を見ていたが、先に男が声をかける。男は大樹よりも少し年上だろうか。切れ長の目で、大樹を上から下までいぶかしげに見る。

「あんたこそ、誰です? 彬さんの知り合いでっか?」
「”彬さん”やて?」
目を細めて、立ちあがる。背丈は長身の大樹とかわらないくらいだが、その格好はかろうじて下着は着けているものの、上半身は裸だ。

「あっ、それ、俺の下着」
「へ? おまえの?」
よく見れば、男が着けているのは、干していた洗濯物のうちのひとつだ。
「あんた、何者です? 勝手に俺の下着穿いて。言わないと、警察呼びますよ」
「おまえこそ、なんや? なんで彬の部屋に、おまえの下着が干してあんね?」
「それは、」
自分は彬の甥でこの春から同居していると、男に説明しようとして、大樹は息をのむ。

今朝あれだけ丁寧に掃除機をかけて、チリひとつない状態で出かけたはずなのに、床にはスナック菓子の袋や食べこぼしや空き缶が散乱している。男が使ったであろうタオルも濡れたまま放置してあるし、イスもテーブルも向きがカタガタになっている。悲惨な状況だ。
おまけに、飲んで空になっているのは、出張から帰ってくる彬のために、大樹がわざわざ用意しておいたビールだ。

「あんた、なにしてくれてんね!」
さすがにこの状況には、大樹も声を荒げる。
「俺がせっかく彬さんのために片づけといたのに、わややないか!」
「せやから、なんでおまえが彬のために、片づけとかしてんね!」
男もまた、声を荒げる。

そのまま、にらみ合う二人の緊張がピークに達しようとしたその時、
「ただいま」
呑気な声をかけて、彬が帰ってくる。
「彬さんっ! この人、なんなん!」
「彬っ! こいつ、なんや!」
ドアを開けるやいなや激しく問われて、彬は二人の顔を交互に見る。

「彬さん。この人、勝手に部屋に入ったうえに、風呂場はビショビショ、テーブルはガタガタ、おまけに彬さんに用意してたビールも飲んでまうし。俺の下着も勝手に穿いて!」
「彬! なんで、この生意気なガキの下着が、おまえの部屋に干してあんね! おまけにビールを用意した、やて!」

「ストップ」
両側から競争するように捲くしたてる二人を、彬は落ち着いた声で遮る。虚を突かれた二人は、思わず黙ってしまう。
「大樹。こいつは朱藤琢己(しゅどうたくみ)。琢己、コッチは真島大樹や」
名前だけ告げて、彬は持ったままだったカバンをおろす。

「とにかく腹が減ってるさかい、先に夕飯にしよか。大樹、頼んでええか?」
「は、はい」
「琢己は服着て」
「着替えがない」
「ほな、僕の貸すさかい」
「ああ」

彬の仕切りで、ようやくその場は収まる。大樹が夕飯の用意をする間に、彬が散らかったリビングを片づける。その間、琢己はどちらも手伝わず、ソファに座って足をブラブラさせているだけだ。
「ほな、いただきます」
夕飯の用意が出来たところで、テーブルにつく。琢己と紹介された男は、当然のように彬の隣に座る。
そう言えば、ハシも茶碗も湯のみまで、客用ではなく琢己専用の物がある。

そんな物まであるなんて、ますます彬と琢己の関係が気になる。黙々とハシを動かしながら、大樹は彬の顔を見る。
その視線に、先に気づいた琢己は、
「彬。こいつ、おまえのなんなん?」
無遠慮な目で大樹を見ながら訊く。

「大樹は僕の甥や。ここから大学に通てんね」
「て、同居してんのか?」
「せや。…大樹、ご飯美味しいな。よう炊けてる。もう一杯くれるか?」
「うん」
誉められて、いそいそとお代りをよそう。

「俺も」
突き出された茶碗をしぶい表情で受けとって、軽くよそう。
「もっと」
促がされて、しっかりよそって渡す。

「で、この人はなんなん?」
なるべく琢己の顔を見ないように、彬に訊く。
「琢己は僕の大学の同級生で、」
「同級生!?」
思わず顔を見る。この、いいかげんでハシづかいも下手な男が彬と同じ歳とは、とても思えない。

「ちょいちょい遊びに来るさかい、カギも渡してんね。ビックリさして、かんにんな」
「それは、ええけど」
彬に謝られると、大樹も弱い。
「琢己も、来る前には連絡して来(き)いて、いっつも言うてるやろ」
「ええやん、別に」
口元を歪めて軽く笑うと、アジフライをひと口。

「おまえ、大樹言うたか。口は悪くて生意気やけど、料理は上手やな」
「せやろ。僕もそれで助かってんね」
「俺も、ここで栄養つけさしてもらおかな」
その発言に驚いて、琢己の顔を見る。
「そうしい」
もっと驚いて、彬の顔を見る。

「大樹、かんにんけど、しばらく琢己にご飯食べさせてやってくれへんか?」
「おまえのメシ、気に入ったわ」
納得は出来ないが、彬に頼まれれば嫌とは言えない。
「わかった」
大樹はしぶしぶながら頷いた。




  2012.11.11(日)


月とハリネズミ へ    
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