それから、少しだけ琢己に対する接し方が変わる。以前は片づけもせずだらしない琢己に、小言を言うだけだったが、大樹は交渉する事を憶える。例えばジャンケンで負けた方が洗い物をするとか、ゲームに負けたら風呂掃除をするとか、そんな約束事を作ったのだ。
欧米で育った琢己は契約という言葉には従順らしく、守るべきルールとそれを破った場合の罰則を決めておけば、案外素直に従う。

野上に想いを告げて、あえなく失恋した夜、何も言わずに側にいてくれた琢己の優しさに触れて、ムチャクチャなだけの人間ではないと、琢己に対して思い始めている。もちろん、琢己の自分勝手なところに振りまわされて閉口する事もあるが、その回数も以前よりは減っている。

ただ、大樹にはどうしても気になる事がある。

今夜は久しぶりに彬が出張から帰ってきて、一緒に夕飯を食べる。疲れて帰ってくる彬のため、大樹は栄養のバランスがとれた献立を考える。出張中は外食ばかりで、どうしても野菜が不足しがちなので、新鮮な生野菜のサラダを用意する。一緒に出すカレーも彬好みの大きめ野菜がたくさん入った、辛いカレーだ。

「いただきます」
彬が風呂を使っている間にカレーとサラダを用意して、風呂から出たらすぐに食べられるようにしておく。
「美味いな」
ひと口食べて、彬はニッコリと笑う。
「大樹のカレーは、ホッとする味や」

「俺には辛すぎて、ホットな味やけどな」
最初にひと口食べただけで、あとは何回も水を含んでいる琢己は不満げな顔で言う。
「夕飯の準備を手伝わへんかった時は、出された料理にケチをつけないて、約束したやろ」
「せやかて、こんな口から火ぃ吹きそうなん、食べれへんわ」
「口がお子ちゃまやからや」

言いあう二人に、彬は目を細める。
「なんや、けっこう仲良うやってるみたいやな」
「どこが」
同時に答える二人に、彬は優しく微笑む。
「けど、僕の好みに合わせたら、琢己には辛すぎやな」

彬は立って水屋の棚を開くと、いつも買い置きしている顆粒タイプのコーンスープを持ってくる。そして、袋を開けて琢己のカレーの上に降りかける。
「これで、少しは食べやすくなるはずや」
大樹からすると食べるのに躊躇する組み合わせだが、琢己は平気で混ぜて食べる。
「あ、ホンマや。これなら食べられる」
カレーを食べながら、琢己は自分のサラダを彬の前に押しやる。彬はサラダの上に乗るプチトマトを、指でつまんで食べてやる。

「ちょお」
たまらず大樹は声をかける。
「なんでトマトを彬さんに食べさせんね?」
「せやかて、俺トマト食べれへんし」
「食べれへん、て。トマトソースのパスタとか、ケチャップ味とかは食べるやないか」
「生のトマトはアカンけど、火を通したのは大丈夫」
「アホか」

「まあまあ」
そこで彬がなだめに入る。
「琢己の偏食は、今に始まったコトとちゃうし。僕も相当頑張ったんやけど、結局直せへんかったな」
「ほら、俺はご幼少のみぎり、味覚を形成する大事な時期にイギリスにおったさかいなあ」
「ああ」
なるほどと、大樹はあやうく納得しかかる。だがよく考えれば、いくらイギリスに居たとはいえ、日本人の両親の許で育ったのだから、味覚の形成うんぬんは問題ないはずだ。

「そんなん、理由になるか」
「一生に出来る食事の回数は決まってんね。1回も無駄に出来(でけ)へん。せやから食べたい物を優先させるて、何べんも言うてるやろ」
「屁理屈や」
「ストップ」
会話のぶつかりあいが激しくならないうちに、彬がやんわりととめる。

「せっかく美味しく夕飯を食べてんのやさかい、仲良う食べてや」
二人の顔を交互に見て、確認するように頷く。
「わかった」
「了解」
大樹も琢己も、彬の肝いりにしぶしぶ頷く。

「ホンマにおまえらは、仲がええのか悪いのか、いっこもわからへんな」
あきれたように彬はつぶやいて、琢己のサラダのカリフラワーも食べる。

大樹と二人の時には、決められた約束事に従うようになってきた琢己だが、たまに彬が居るとすっかり依存している。子どもが親に甘えているような、そんな印象すら受ける。
彬もまた、そんな琢己を許している。
素直に言うコトをきかないから言うだけ無駄だと、彬は以前言っていたが、そんな達観した様子ではない。
むしろ甘えられるのが当たり前で、そんな関係が心地いいと思っているフシがある。

…大人の、男同士の友達て、こんな親密なモンなんやろか。
琢己と彬のやりとりを見ながら、大樹はあらためて不思議に思った。



うっとしい梅雨が明ければ、本格的な夏がくる。大樹の通う大学では、長い夏休みに入る前に前期の試験がある。
試験終了のカネが鳴るギリギリまで粘って試験会場に残っていた大樹は、解答用紙を提出して外に出る。
「真島」
そこに、後ろから声をかけられる。
野上だ。まだ、野上の顔を見ると、胸の奥が痛む。だが、以前ほどではない。野上は大樹の告白を聞いた後も、友達として普通に接してくれる。そんな野上の優しさは、本当にありがたい。

いつかこの胸の傷にカサブタが出来て、はがれて落ちれば、また友達としてつき合えるようになるはずだ。だが、それは今ではない。もう少し、時間がかかる。
「真島、試験どうやった?」
「ああ、ギリギリで追試はまぬがれそうや」
なるべく明るい声で答える。

「試験が終わったら夏休みやけど、真島はどないすんね?」
「うん、俺、2年のうちに車の免許取っとこうかと思て」
「ああ。3年になったら、インターンシップやら就活(=就職活動)やら、大変やもんな」
並んで歩きながら、落ち着いた声で会話する。
「休みに入ったら、合宿で取れるトコに行って、サクッと取ってくるわ」

泊り込みで免許取得に取り組めば、3週間程度で車の免許は取れる。それに、その間は野上に会わなくてすむので、少しだけ気が楽だ。
「野上は、どないすんね?」
「僕はバイトして帰省して。旅行に行くかもしれん」
「そうか」
そこまで話して、ちょうど駐輪場に着く。大樹はここに自分のバイクを停めている。

「ほな、あと2科目、頑張ってや」
「なんや、他人事みたいに」
「ホンマや。ほなな」
軽く手を上げて、野上は歩いて行く。ゆったりと歩く後ろ姿をしばらく見送って、大樹は小さくため息をついた。



なんとか追試を受ける事なく前期試験が終わった後は、野上に話した通り合宿で車の免許を取りに行く。この時季、誰も考える事は同じだったようで、合宿所はずいぶんな込み具合だったが、おかげで順調に段階をクリアして、予定よりも早く免許を手に出来る。

合宿所から帰る電車の中で、大樹は野上に免許が無事取れた旨をメールする。すぐに野上からは”おめでとう。よう頑張ったな”と返信がある。
文面に野上の爽やかな笑顔がうかびあがり、大樹の胸は熱くなる。しかし、痛みは小さくなっている。大樹はメールの文面が表示されている携帯電話の画面をそっと撫でると、畳んでポケットにしまう。

免許を取ったらその足で実家に帰るつもりだったが、彬の部屋の事が気になる。琢己は大樹が合宿でいない間は、自分の部屋に帰ろうかと言っていた。だが気が変わって、ずっと彬の部屋にいたかもしれない。
そして口うるさい大樹がいないのをいい事に、部屋の中を散らかし放題にしているかもしれない。

「…」
想像するだけで頭が痛くなる。確か明日、彬は出張から帰ってくる予定ではなかったか。ならば尚のこと、一度彬の部屋に戻って、様子を見ておきたい。
大樹は肩からかけた大きなバッグをもう一度かけなおすと、電車をおりて改札に向かう。

部屋へと戻る道すがら、実家に帰る前に一度そちらに立ち寄ると、彬に伝え忘れた事を思い出す。どうしようか迷うが、メールしても彬が出張から帰ってくるのは明日だし、琢己も居るのか居ないのか、てんでアテにならない。
…ま、ええやろ。
メールしようと取り出した携帯電話を、再び畳んでポケットにしまう。

大樹がマンションに着いた頃には、すでに日が暮れかけている。薄暗闇の中、街灯がともり始める時間だ。すぐ近くから建物を見上げれば、彬の部屋の窓は暗い。やはり、誰もいないようだ。

エレベーターであがって、カギを開けて中に入る。玄関に靴はなく、中に灯りも点いていないので、人がいる様子はない。
「ただいま、と」
無人の部屋に元気よく入るのもはばかられて、大樹は小さな声で靴を脱ぐ。玄関右手にある自分の部屋に荷物を置いて、ベッドに座る。玄関から見える範囲は、合宿に出かけた時とそう変わっていない。問題はリビングと、琢己が自分の巣にしている和室だ。
大樹はひとつため息をついて、部屋から出る。

と、小さな物音がする。リビングの方からだ。誰もいないはずなのにと不思議に思いながら、大樹はリビングへと続くドアに手をかける。

「…っ」
声が、する。
「あっ、彬」
琢己の、声だ。
「スゴ、い」
「気持ち、ええか?」
彬の声も聞こえる。

琢己と彬が一緒にいて、聞いた事のないような艶めいた声でささやきあって。
経験のない大樹でも、分かる。今、琢己と彬はリビングで…。
「くっ」
気づいたとたん、目の前が真っ暗になる。ドアノブを持つ手が震えて、離せない。反対の手で指をひとつひとつ外して、震えがとまるよう強く握りしめる。

「彬、も、アカン」
「もっと、やろ?」
「アホ。ドS」
「足りひん、くせに」

ドアを隔てたリビングから濃密な空気がもれて、大樹の足元にまとわりつく。
冗談やと否定する気持ちと、やっぱりと肯定する気持ちが大樹の心で渦巻いて、まともに立っていられない。
「っ」
震える手で口元を押さえて、あとずさる。自分の部屋から荷物とヘルメットを持って、玄関から飛び出す。

一秒でも早く、この場から逃げ出したい。
エレベーターを待たず、階段を駆け下りながら、大樹はそればかりを考えていた。




  2012.11.24(土)


月とハリネズミ へ    
Copyright(C) 2011-2012 KONOHANA SYOMARU. All Rights Recerved.
inserted by 2nt system