翌日、後期の授業の準備で朝から大学に行く。まだ夏休み中のキャンパスは、人影もまばらでどことなく活気がない。
大樹は駐輪場に乗ってきたバイクを停めて、図書館へ向かう。図書館は開放されているものの、やはり利用している人は少ない。空いている席にリュックをおろし、イスをひいて腰かける。ノートを広げて資料を基にレポートをまとめようとするが、目は字面の上を滑るだけで、ひとつも頭に入ってこない。
ペンの動きをとめて、昨夜の事を考えている。

昨夜は琢己と夕飯を食べて、ビールを飲まされて。とうとう琢己と彬の関係を知っていると白状させられた。その後、琢己が何と言ったか。したたかに酔った頭は憶えていないが、ただ哀しげですまなさそうな表情をうかべたのは憶えている。
今朝、大樹が出かける時には琢己はまだ寝ていたので、顔も見ないままだったが、夕方帰った時にどう接すればいいのか、大樹は悩む。

…あいつのコトやさかい、もっとヘラッと認めるかと思たけど、あんな苦しそうな顔するやなんて。
琢己の顔を思い出して、小さく胸が痛む。言わなければ良かったと、何度目になるか分からない後悔をする。
気楽で何の悩みもないかのように見える琢己だが、そのじつ、大きな悩みを抱えているのかもしれない。同性に恋をするのは仕方がないにせよ、自分の気持ちを認めて、なおかつ行動に移すのは覚悟のいる事だ。大樹自身もそうだった。

ましてや、琢己も彬も社会人だ。恋人同士でいる厳しさは、学生の比ではないだろう。
…帰ったら、あいつの好きなナポリタンでも、作ってやろか。
ため息をついて、そう考える。頭を切り替えてレポートを進めようとするが、なかなか集中できなかった。



今朝出かける時にはまだ寝ていたから良かったものの、夕方のこの時間だと琢己は確実に部屋に居る。顔を合わせづらいが、帰らないわけにはいかない。
「ただいま」
重い気持ちで玄関ドアを開ける。自分の部屋に荷物を置いてから、リビングへと続くドアを開ける。
「ただいま」
だが、返事はない。リビングの中を見回しても、琢己の姿はない。部屋の中にいる気配もない。コンビニに行ったか、ビールの買い出しに行ったか。いずれにせよ、そのうち帰ってくるだろうと、大樹はナポリタンを作り始める。

しかし、いくら待っても琢己は帰ってこない。大樹は一人でナポリタンを食べて、片づけて、風呂を使って休む。
次の日もその次の日も、琢己は帰ってこない。
「ただいま」
声をかけて部屋に入る。当然、おかえりと返ってこない。静かなままだ。一人で夕飯の支度をして、一人で食べる。テレビではお笑い芸人のバラエティー番組が流れているが、軽薄な笑い声が響くばかりで、少しも面白くない。

「ごちそうさま」
テレビを消して、使った皿を洗う。蛇口を締めて、手を拭いて。リビングを見回す。
…リビングて、こんなに広かったか?
琢己がいる時には、散らかし放題で片づかないのにイライラして、早く出て行って欲しいと切望していたが、いざ琢己がいないと、なんとなく味気ない。

琢己の寝泊りしていた和室には、まだパソコンやその他の荷物が置いたままなので、帰ってこない事はないだろう。
大樹はひとつため息をついて、リビングのソファに座る。
テレビの前でゲームをする琢己、パソコンに向かって作業をしている琢己、テーブルについてお世辞にも上手とは言えないハシづかいで食事する琢己、リビングのソファに寝そべって本を読みながら鼻歌を歌う琢己。
この部屋の中には、琢己の残像がたくさんある。

だが、琢己自身の姿はない。やはり、彬との関係を自分に知られた事がショックで、顔を合わせづらくなって、部屋を出て行ってしまったのだろうか。
「くそっ」
ヒザにヒジをついて、頭を抱える。琢己がいない事で、どうしてこんなにも心乱れるのか。大樹には分からない。

「ただいま」
その時、玄関に人の気配がする。慌てて大樹は立ちあがると、玄関に飛んで行く。
「どこ行ってたんや!」
「は?」
落ち着いてよく見れば、琢己ではなく彬だ。いきなりの大樹の言葉に驚いた様子の彬が、玄関に立っている。

「あっ、彬さん。かんにん。俺、メールチェックしてへんかったわ。今夜、帰って来るんやったな」
「それはかまへんけど」
「すぐ夕飯の支度するし」
彬とも顔を合わせづらい。大樹は急いで背を向けて、キッチンへ入る。

自分の部屋に荷物を置いて、楽な格好に着替えた彬がリビングに入ってくる。
「ん? 琢己は?」
すぐに琢己の姿がない事に気づいたようだ。包丁を使う大樹の手がとまる。
「それが、3日前からおらんようになってしもて」

「さよか」
だが彬の反応は薄く、それだけ言ってテーブルにつくと、新聞を読み始める。
「あの、心配とちゃうの?」
「なにが?」
新聞から顔も上げずに訊きかえす。

「せやかて、急におれへんようになるし。メールの返信もない」
「フフ」
大樹の言葉に、彬は小さく笑う。
「なんや。大樹は琢己に早よ出て行けて言うてたわりに、おれへんようになると心配なんか?」
さすが彬。ズボシだ。

「そ、そんなコト」
「心配せんといてもええ」
新聞をキチンと畳んで、彬は言う。
「琢己は、いっつもフラッと来て、フラッとおれへんようになる。気まぐれで身勝手で。そんなヤツや」
彬の顔を見る。口では厳しい事を言っているが、表情は柔らかい。

「まあ、まだ荷物も置いたままやし、気が向いたら戻ってくるやろ」
「そんなモンなんか」
つぶやいて、再び手を動かし始める。

「かんにんな、大樹」
グッと、胸を押されて息苦しくなる。
琢己がいなくなった事で、大樹は責任を感じてただ心配なだけだが、彬は違う。琢己を信頼していて、心配もしない。大樹を気づかう余裕もある。
その事が、琢己と彬の強い絆を思わせる。離れていても、どこかで繋がっているような関係に、大樹の胸は痛む。

「大樹、どないした?」
訊かれて、初めて自分が涙をうかべているのに気づく。
「あ、タマネギ、目にしみて。顔、洗てくるわ」
早口で言って、洗面所に入る。冷たい水で何度も何度も顔を洗って、蛇口を締める。
顔を上げて、鏡に映る自分を見る。彬によく似た、だが彬には遠く及ばない、子どもの顔だ。
「くそっ」
大樹は吐き捨てると、再び顔を洗う。ほほの赤みは取れたが、胸の奥のもやもやは、何度顔を洗っても簡単には取れなかった。



そんな日が何日か続いて。
「ただいま」
大学から帰った大樹は、ガキを出してカギ穴にさす。が、カギはかかっていない。彬は出張に出ていて、今日は帰ってこない。玄関ドアを開ければ、ドロだらけの靴が脱ぎ捨てられている。

…まさか。
慌てて大樹も靴を脱ぎ捨てて、荷物も放りだしてリビングへと続くドアを開ける。
「よお」
明るい色の髪が、ソファの向こうに見える。走って回り込めば、琢己が座っている。
「腹へった。なんぞ、食わせて」

「アホ!」
「わっ」
どうしてそうしたのか、自分でも分からない。が、大樹はひと声吠えると、琢己に抱きつく。その反動で、琢己の体はソファに倒れこむ。
「どこ行ってたんや! なんも言わんと、おらんようになって! メールも返さへんで!」
「大樹、落ち着け」
「落ち着いていられるか、アホ! 俺が、どんだけ心配したか!」
「へえ、心配、してくれたん?」
大樹の言葉に琢己はニンマリ笑うと、下から大樹を抱きしめて、大樹が落ち着くよう背中を柔らかく叩く。

あやすように琢己から背中を叩かれるうちに、しだいに大樹は落ち着いてくる。
「仕事で、どうしても行かなアカンとこがあってな」
低い琢己の声が、直接胸から響いてくる。そこで初めて、自分が琢己と体を密着させている事を自覚する。
「心配さして、かんにん」
琢己の温かさと一緒に、優しさが自分の体にしみ込んでくるようで、離れがたい。

「心配かけて、平気な顔で戻って来て」
「うん」
「せやから、俺はあんたが嫌いなんや」
つぶやいて、さらに強く琢己の体を抱きしめる。
「嫌いや、あんたなんか」

「そうか?」
背中にあった琢己の手は、大樹の頭に。指をさし入れ、髪を梳く。
「俺は、おまえのコト、嫌いとちゃうで」
「え」
思わず、顔を上げる。

琢己の顔は、冗談を言っている顔ではない。優しく大樹を見上げている。
心臓が、跳ねる。

「おまえ、可愛いトコあるし」
「アホか」
弱くもがいて体を起こそうとするが、琢己は強く抱きしめて離さない。
「俺がおれへんようになって、寂しかったんやろ。おっちゃんに甘えてもええんやで」
「自分でおっちゃん言うなや」
「せやかて、おまえからすれば”おっちゃん”や」

今の琢己の声に、哀しい響きが混じっていたように聞こえたのは、気のせいだろうか。
「ほな、次からあんたのコト、おっちゃんて呼んだるわ」
「ええ!? せめて名前で呼んでんか」
「アホか」
今度こそ、大樹は体を起こして立ちあがる。手を取って、琢己も座らせる。

「腹へってんねやろ? なんぞ作ったるわ」
「おおきに」
ニッコリ笑う。
久しぶりに見た琢己の笑顔に、大樹の胸は熱くなる。そして、さっきまで感じていた琢己の体の温かさを、生々しく思い出す。

「待っときや」
背中を向けて顔を伏せる。そうしないと、赤くなった顔を琢己に見られそうだ。
「ああ。頼んだで、大樹」
琢己に名前を呼ばれただけで、さらに胸が熱くなる。
胸の奥に生まれたこの不可解な熱は、なかなか収まってはくれなかった。




  2012.12.01(土)


月とハリネズミ へ    
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