彬の教えてくれた翻訳仲介業者とは、ネット上で登録した翻訳者の中から、言語、得意分野、納期などの条件で最適な者を選び出し、翻訳作業の仲介をしてくれる場所だ。
例えば、フランス語で医薬品の効果効能を1000文字程度2日以内で翻訳してくれる人、と依頼すれば、条件に見合った人を紹介してくれる仕組みだ。

琢己はそこに登録して、英語の翻訳を手がけている。
翻訳者は基本、業者からの紹介になるが、指名も出来る。これなら、直接琢己に連絡が取れる。大樹はよくよく内容を考えて、琢己あてに翻訳を依頼する。



季節は、いつの間にか晩秋を迎えて、日に日に日暮れの時間が早くなっているように感じる。大樹は駐輪場にバイクを停めてヘルメットを脱ぐと、ところどころにサビの出た階段を昇る。3つ並んだ一番奥のドアの前に立ち、カギを出して戸を開ける。
「ただいま」
声をかけるが、もちろん誰も答えない。
それもそのはず。大樹はつい先日、彬のマンションを出てキャンパス近くのこのアパートに引っ越して来た。

彬の部屋に比べれば日当たりも悪く、間取りも1DKと狭いが、一人で暮らすには充分だ。彬は気にせずに部屋に居ていいと何度も言っていたが、大樹はケジメをつけるために彬の部屋を出て、一人暮らしを始めた。

母親の浩子も、大樹が彬の部屋を出て一人暮らしを始めるのには反対していたが、彬の”大樹がいたら彼女が出来ても呼べない”との言葉に、しぶしぶ許可をくれた。

部屋に戻ったら、まず最初にパソコンを起動する。そして、メーラーを起動して新着メールをチェックするのが日課になっている。先日依頼した、英文の翻訳結果を見るためだ。琢己を指名して翻訳を依頼したので、確実に琢己は見ているはずだ。
依頼者の氏名やメールアドレスは翻訳者にも伝わっているはずなので、琢己がその気になれば、大樹に連絡を取るはずだ。

だが、何日経っても、琢己からの連絡はない。
もう、自分とは連絡を取るつもりもないのか。そう考えると、つらい。メーラーを閉じて、畳に寝転がる。
…もいっぺん、納期を大至急にして、翻訳を依頼してみよか。

頭の下に腕を組んで考えていると、誰かが階段を昇ってくる音がする。この昇り方は男だ。それも、かなり焦っている。隣の部屋は空き部屋なので、一番手前の部屋の住人かもしれない。
だが、足音の主はまっすぐ大樹の部屋の前まで来て、強く戸を叩く。
「え?」
自分を訪ねて来る相手に心当たりはない。いぶかしく思いながらも、起きて戸を開ける。

そこには、琢己が立っている。
「た、たく…」
「アホ大樹!」
顔を見るなり、怒鳴りつける。

「入るで」
あっけにとられる大樹の了解も待たずに、勝手に部屋に入る。大樹に向き直り、腕を組む。
「おまえ、なんで彬の部屋を出たんや!」
「それは、いづらくなって」
「それに、なんや、この英文は!」
彬はポケットからクシャクシャに畳んだ紙片を出して、大樹の目の前に突きつける。
そこには、大樹が翻訳を依頼した英文がたった一行”I miss you”とある。

「この、ゆとり世代が!」
「せやかて!」
一方的に捲くしたてる琢己に、大樹も負けていない。
「あんた、出て行ったっきり、メアドもソッコーで変えて! 連絡つかへんかったんやないか!」
「ケータイがあるやろ!」
「番号、聞いてへん!」
「アホ!」

「アホアホ、気軽に言うな!」
たまらず、琢己を抱きしめる。久しぶりに感じる体の温かさに、髪の匂いに、夢ではなく本当に琢己を抱きしめていると実感する。
「…逢いたかった」
熱いため息と一緒に、隠しようのない本当の気持ちをつぶやく。

「ったく」
琢己もまた、ため息をつく。
「俺も長いコト翻訳の仕事してるけど、こんなヒドい英文訳したんは、初めてや」
「ヒドい?」
「ああ。こんな、たった一文で、矢も盾もたまらんようになって、おまえに逢いたくなるような」
腕を伸ばし、大樹の首を抱く。
「俺の心を、こじ開けて。ホンマに」

「琢己さん」
腕を緩めて、顔を見る。琢己もまた、大樹の顔を間近に見つめる。どちらからともなく、顔を寄せて、唇を重ねる。何度も、何度も、確かめるように重ねる。
「大樹」
名残り惜しげに離れていく唇を、目を細めて見つめる。濡れた唇は、かすかに自分の名前の形に動く。それだけで、大樹の胸は熱くなる。
「おまえは、アホや」
「うん」
「せっかく、俺から逃げる機会をやったのに」

「逃げる? なんで?」
大樹の問いににがく笑って、琢己は一歩後ろに退いて畳に直に座る。
「俺と彬が恋人同士になったのは、ちょうど今のおまえくらいの頃や。とにかく彬は純情で、カッコ良くてな。俺は夢中になった。ほんでも、何年も経つと気持ちが変わってしもて。結局、別れてしもた」
「その話は、彬さんにも聞いた」
「彬は、苦しくてつらかったて、言うてたやろ? 俺も、そうや」

座る琢己の横に、大樹もアグラをかく。
「初めておまえを見た時、ビックリした。学生の時の、俺が夢中になった彬と、おまえがあんまり似ていたからや」
大樹と彬は今でもよく似ているので、同じ歳の頃ならば余計にそうだろう。

「姿形だけやない。几帳面で真面目な性格も、料理上手なトコも、優しいトコも、俺を呼ぶ声すら、おまえは彬にそっくりで。俺は、」
大樹の顔を見つめる。
「おまえに、惹かれた。どんどん惹かれて、気持ちが抑えられんようになってしもたんや」

「ほな、琢己さんも、俺を?」
「肌を合わせて、余計にハマッた。嬉しくて、幸せで。俺はおまえが、」
熱いため息をついて、
「好き、なんや」
ひと言ひと言、ゆっくりと告げる。

大樹を見つめる琢己の目から、涙がひと筋、こぼれてほほを流れる。
「ああ、琢己さん」
腕を伸ばし、指先で琢己の涙をぬぐう。
「ほな、なんで出て行ったんや? なんで俺の前から、姿を消したりしたんや?」
「この先、きっとおまえは俺から離れていく。彬が離れたように、おまえが離れてしまうのは、俺には耐えられへん」
後から後から、涙があふれる。

「耐えられへんのや。せやから、逃げた。逃げたつもりでいたのに」
自分の涙をぬぐう大樹の手を、琢己は強く握る。
「もう、離れられへん」

「アホやな」
子どものように顔を歪めて泣き続ける琢己を、大樹は優しく抱きしめる。
「俺はどこにも行かへん。ずっと、あんたのそばにいる」
「めんどくさい男やで、俺は」
「知ってる」
「ワガママで、自分勝手で、好き嫌いが多いんやで」
「それも知ってる」

「それに、おまえより15も年上の、おっちゃんや」
「どこの世界に、泣きすぎて鼻まっ赤にしてる”おっちゃん”がおんね」
大きく笑って、大樹はそう言う。

「なあ、俺が80の時はあんたは95。100なら115や。どっちもじいさんやろ?」
「おまえ、俺をどんだけ長生きさせる気やねん」
「俺がちゃんと栄養のあるモン食べさせて、健康管理して、シモの世話までちゃんとしたるわ」
「うわ」
一緒、顔をしかめるが、すぐに笑顔になる。

「ワガママで偏食で、ついでに甘えたやけど、そんな琢己さんが、好きなんや」
笑いながら、鼻の頭に口づける。
「琢己さんは?」

訊かれて、スッと真面目な顔になる。
「”I love you,DAIKI”」
大樹にも分かるように、ゆっくり丁寧に発音する。ほんの短い言葉にこめられた琢己の熱い想いが、直接大樹の耳から胸に響く。
「うん」
胸がいっぱいになって、何も言えない、涙がこぼれないよう、頷くのが精一杯だ。

そんな大樹の右のほほと左のほほに口づけて、琢己は唇を重ねる。
晩秋の早い夕暮れに部屋の中は冷たくなっていたが、二人抱き合うこの空間だけは温かな空気に包まれていた。

                                                   おわり




  2012.12.08(土)


月とハリネズミ へ    
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