横たわったままの大樹も、大樹に抱きしめられている琢己も、立ちつくす彬も、誰も何も言わない。時をも凍る数瞬が、その場に流れる。
やがて、琢己は大樹の腕をほどいて畳にアグラをかく。
「彬。かんにん」

「琢己っ!」
部屋全体が震えるほどの怒号を発する。動けないでいる二人に近づいた彬は、右手を大きく上げる。
「アカン!」
琢己が殴られる。慌てて大樹は立ちあがり、彬の腕をとめる。

「琢己! おまえは、なにをしでかしたんや!」
「ちょ、彬さん!」
「なにをしたかて、訊いてるんや!」
いつもは温厚で冷静な彬が初めて見せる、怒りの表情だ。こめかみに青筋たてて怒鳴る彬が怖い。振り払われないように、必死で腕にしがみつく。

「大樹。離せ」
「イヤや。離したら、琢己さんを殴るんやろ」
「琢己は、僕に殴られるだけのコトをしてる」
「イヤや。琢己さんを殴るんやったら、俺を殴ってくれ!」
そこまで言えば、しだいに彬の腕から力が抜ける。
顔を見れば、激情にかられた怒りはいくぶん治まったようだが、眉間のシワは刻まれたままだ。

「琢己。これは、どういうコトや」
低くて、ざらついた声だ。
「どうもこうも。見たまんまや」
ため息をついて、立ちあがる。
「おまえの大事な大樹クンを、俺がオトコにしたった」

「琢己!」
あっと思った瞬間にはもう、彬は手を上げている。琢己のほほが打たれる乾いた音が、リビング中に響きわたる。
「服を着て、出て行け」
「ああ」
琢己は、打たれたほほを手で押さえる。わずかに口の端が切れて、血が滲んでいる。
「どんな修羅場やねん」
ぬぐった指先に付いてきた血を見て、自嘲気味に笑う。

「琢己さん、血が」
「ほっとけ」
「せやかて」
のろのろと服を着る琢己に、大樹が近づこうとするのを彬は許さない。

「ほな」
大樹と彬に軽く手を上げて、琢己は背中を向けてリビングを出て行く。
「琢己さん」
「アカン」
琢己のあとを追いかけようとする大樹の腕をつかんで、彬は引き止める。やがて玄関のドアの閉まる音がして、部屋から完全に琢己の気配は消える。

「おまえも、シャワーを使(つこ)て、服を着ろ」
きつい口調で言われて、初めて自分がまだ下着すら穿いていないのに気づく。
琢己が部屋を出るのを力づくで引き止めて、そこに彬が帰ってきて、二人の関係が発覚して、激高した彬に琢己が殴られて、そのまま出て行って。
この数分間の出来事に、大樹の思考は混乱する。頭では琢己を追いかけなければと思っていても、足が動かない。

「大樹」
彬はいつまでも動かない大樹の腕をつかんで、無理やり風呂場まで引っ張って来ると、浴室の中に放り込む。そして、頭から冷たいシャワーを浴びせる。
「少し、頭冷やせ」
戸を閉めて、行ってしまう。

冷たいシャワーに打たれるうちに、少しずつ冷静になってくる。あんなに怖い彬を見たのは、生まれて初めてだ。いつもは温厚で穏やかな彬の怒声は、大樹を萎縮させるのに充分な迫力を持っていた。彬が二人の関係を知れば、きっと反対する。反対する事が分かっていて、秘密にしていたからこそ、余計に甘美な”罪の味”がしていたと言ってもいい。

だから、こんな最悪の形で発覚して彬を傷つけてしまった事は、大樹にとって不本意で申し訳ない。しかし、彬に反対されたからといって、琢己に対する想いは断ち切れない。
…彬さんに、どうあっても許してもらわな。
シャワーの温度を上げて、体を洗ったところで、大樹は腹をくくった。



しかし、彬は大樹の話をまともに聞こうとはしない。予定ではしばらく遠方への出張はないはずなのに、朝早く部屋を出て、夜遅くにしか帰ってこない。同じ部屋に居ても、一緒に食事を摂ろうともしないし、すぐに自分の部屋に引っ込んでしまう。

部屋を出て行った琢己とも連絡が取れない。大樹からメールを送るのだが、琢己はすぐにアドレスを変更していて届かない。大樹にとって、部屋に琢己がいるのが当たり前すぎて、琢己の住所はおろか連絡先さえ知らない。

だが彬なら、きっと琢己の連絡先を知っているはずだ。琢己に、逢いたい。逢ってもう一度、話がしたい。
そこで、大樹は手立てを考える。

その夜、大樹は腕に依りをかけて彬の好物を用意して、帰りを待つ。ほどなく帰宅した彬に風呂をすすめ、その間に夕飯の支度をする。
「彬さん、ビールは?」
「なんや今夜は、えらいサービスがええな」
「うん。俺、彬さんと一対一(サシ)で飲んでみたいんや」
彬も大樹の思惑は分かっているのだろう。だが、黙ってグラスを用意すると、大樹と自分とにビールを注ぐ。

「俺、彬さんに謝りたいコト、あるんや」
2つ3つ、杯を重ねたところで、大樹はそう切り出す。
「琢己の、コトか?」
彬の声は落ち着いている。大樹は頷いて続ける。
「俺と琢己さんがつき合(お)うてるコト、隠してて、ホンマすんませんでした」
テーブルに手をついて謝る。

「彬さんが怒るのも、無理ない。心配して、反対すんのも、無理ないて思う。けど、なんで俺が琢己さんを好きになったらアカンのか、もいっぺん、その理由を聞きたいんや」
顔を上げて、彬の目を見る。その真剣な目に、彬は小さくため息をつく。
「僕が琢己とのコト、反対すんのは、あいつがおまえの恋人として相応しくないからや。琢己は男で、歳はかなり上で、誠実でもない。そのうえ、」
と、ここでしばらく言葉を切って、意を決したように、
「僕の、恋人やった」

「それは、知ってる」
「知ってたんか」
少し驚いたように言って、手酌でビールを飲む。
「僕が琢己に会(お)うたのは、大学に入った時や」
遠い目をして、ほおづえをつく。

「帰国子女やったあいつは、周りから浮いた存在でな。協調性はない、自分が納得いかんかったら教授にもかみつく、ホンマに困ったヤツやったんや」
「ああ」
それは想像に難くない。
「僕は歳の離れた末っ子で、周りの大人の顔色を伺って育ったようなトコがあったさかいな。琢己に振りまわされて迷惑やったけど、どっか憧れてた」
目を閉じる。
「好きに、なったんや」

当時の事を鮮やかに思い出しているのか、彬はしばらく口をつぐむ。
「恋人同士になって、僕は有頂天になった。琢己の全てがいとしくて、一緒にいるのが幸せで、何もかもが輝いて見えた。けど、」
ここで、低い声になる。
「学生の時はそれで良かったんや。僕も琢己も就職して仕事を始めたら、だんだんすれ違いが多くなってしもて」
ため息をつく。
「心が、離れたんやな。お互い、恋人であろうと努力するコトに疲れてしもて。琢己の”親友に戻ろう”て言葉を、受け入れたんや」

「そう、やったんか」
「琢己が悪いワケと違う。わかっていても、つらくて、苦しかった。きっと琢己も、僕と同じくらいつらかったんやと思う」
低い声でそう言う彬に、大樹はビールを注ぐ。その時のにがい感情を消すかのように、注がれたビールを彬はひと息に飲んでしまう。

「本気で好きやったからこそ、あんなにつらかったんやな、きっと」
今でこそ客観的に自分の感情を省みているが、冷静に自分の気持ちと向き合えるようになるまでには、ずいぶん時間がかかったはずだ。彬は何も言わないが、大樹はそう思う。

そして、琢己も自分もつらい思いをしたからこそ、大樹には同じ轍を踏ませたくないと考えるのだろう。彬の優しさが、身に染みる。
「彬さんは、まだ、琢己さんが好きなん?」
その問いかけには、首を振って否定する。
「恋人の好きて気持ちは、もうない。琢己とは、兄弟か家族か、そんな感情があるだけや」

「ほな、俺が奪っても、ええ?」
「大樹」
「琢己さんと彬さんが恋人同士やった時、つらい別れ方をしたさかい、俺にも同じ思いをさせたくないて心配してくれてんのは、ホンマありがたい。けど、俺と彬さんは違う」
大樹は立ちあがり、深々と彬に頭を下げる。
「認めてくれ、とは言いません。けど、もいっぺんだけ、琢己さんと会う機会をください」

頭を下げ続ける大樹に、彬は大きなため息をつく。
「大樹。おまえ、ホンマに」
「琢己さんが、好きなんや」
真剣な目で、彬を見つめる。

そのまま、黙って大樹の目を見ていた彬は、傍らに置いた自分の携帯を手にすると、手早く操作する。
「今、おまえの携帯にメールを送った」
確かに、確認すれば彬からメールを受信している。
「琢己が登録している、翻訳仲介業者の連絡先や。僕が出来んのは、ここまでや」

「お、おおきに、彬さん」
顔を輝かせる大樹に、彬は複雑な表情をうかべる。
「ホンマは、おまえも琢己も、傷ついて欲しない」
「傷つかへんかも、しれん。けどもし、万が一、傷ついたとしたら、そん時は慰めてな」
「せやな。僕はおまえの叔父で、琢己の親友やもんな」
ここで、ようやく彬は穏やかな顔に戻っていた。




  2012.12.08(土)


月とハリネズミ へ    
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