大樹の聞き違いでなければ、彬は”しばらく琢己にご飯を食べさせてやって欲しい”と言ったはずだ。それを大樹はしぶしぶながら受け入れた。
彬に馴れ馴れしく接し、自分を闖入者扱いしている琢己の態度は気にくわないものの、たまに来て夕飯を一緒にするだけと、そう解釈したからだ。彬がいる時に来て、夕飯を食べさせるくらいなら、まだガマン出来ると。

だが、琢己はその日から彬の部屋にいつく。リビングに続く和室に自分の荷物やパソコンを置き、朝は大樹が大学に行く時間にはまだ寝ているし、夜は一緒に夕飯を食べる。
それでも、彬が出張に行けば自分の家に帰るだろうと思っていたが、帰る気配はない。

…なんや、あいつは。
そんな生活が半月ほど続く。
大学の学生食堂で遅めのランチを食べながら、大樹は今朝の事を思い出す。自分が寝る前にキチンと片づけておいたはずの台所が、朝起きたらシンクにカップラーメンの食べ残しが捨ててあった。きっと小腹のすいた琢己が、夜のうちに食べて、そのまま流しておいたのだろう。

食べるのはかまわない。だが、食べたあとをそのままにしないで、せめて水ですすいでゴミ箱に捨てて欲しい。手間のかかる事ではないはずだ。
琢己がいると一事が万事、この調子だ。
いくら大樹が片づけても、後から後から散らかして平気な顔をしている。おまけに寝泊りしている和室に、いつの間にか自分の荷物を持ち込んで、狸の巣のようにしている。

「ホンマに」
「真島」
吐き捨てるように言って、ご飯を口に入れたところで、後ろから声をかけられる。振り返れば、同じゼミの野上高史(のがみたかし)が立っている。
「ここにおったんか。座ってええ?」

「ああ」
慌ててご飯を飲み込んで、大きく頷く。野上は白い歯を見せて笑うと、イスをひいて大樹の向かい側に座る。
「今、メシか?」
「うん。さっきまで図書館にいたさかい」
「ああ。せやから、ケータイに出えへんかったんか」
「え、ウソ?」

カバンから携帯電話を取り出して確認すれば、確かに野上からの受信履歴がある。
「うわ、かんにん。気づけへんで」
「ええよ、急ぎの用事ともちゃうし」
優しく笑いかける。
「で、用事て、なに?」
「うん。来月の発表で使う資料のコトなんやけど」
静かな声で話し始める。
野上とは大学に入ってから知り合った。同じ歳だが、一人息子の自分とは違い、下に兄弟のいる野上はずいぶん落ち着いた雰囲気を持っている。気づかいも出来るし、面倒見もいい。なんとなく彬に似ている野上を、大樹は無意識のうちに目で追っている事が多い。

「…で、この部分を頼んでええかな?」
「え?」
キレイに整えられた爪がタブレット式端末の上を滑るさまに見惚れていた大樹は、訊かれてハッと我にかえる。
「あ、かんにん。ちょお、見づらくて」
「そうか。これで、どうや?」
野上は画面が見やすいように、大樹に体を近づける。

「この資料、英文のしかなくて、出来れば訳しとって欲しいんや」
「英文て、英語か?」
顔を上げて確かめる。と、すぐ近くに野上の端正な顔がある。
「お、俺、英語とか全然やし」
思わず言葉がもつれる。

「自動翻訳にかけても、専門用語が入ると全然使えへんしな」
「せやな」
困ったような表情をうかべて、野上はイスに座りなおす。
その時、大樹の携帯がメールの着信を知らせる。野上に断って確認すれば、発信元は琢己だ。琢己からのメールには”ハンバーグ”、その一文しか書いてない。

にがい顔で携帯を置いた大樹に、
「なんやトラブルか?」
「いや、そうとはちゃうんやけど」
答えたものの、琢己の存在は大樹にとってトラブルそのものだ。
「話、聞いたろか?」
優しい声に促がされて、琢己の事を吐露する。

彬と同居するマンションにいつの間にか居ついてしまった琢己は、信じられないくらいだらしない。再三再四、片づけるように言っても、その場では頷くものの、結局またやりっぱなしだ。
昼まで寝ていて一日中ゲームをしているかパソコンを操作している。なんで彬の部屋に居るのか、どうやって収入を得ているのか、そもそも働いているのかすら疑わしい。

そのうえ食べ物の好き嫌いが激しくて、大樹がバランスのとれた食事を用意しても、生魚は食べられないとか、焼き魚は骨が邪魔とか、野菜は味が青臭いから嫌だとか、そんな理由で食べない。まったく屁理屈ばかりこねて、子どもより性質が悪い。

「へえ」
野上は大樹の話を、長い足を形よく組んで黙って聞いている。
「ほんで、真島の叔父さんは、なんて言うてんね?」
「それが、なにを言うても”琢己らし”て笑(わろ)てるだけで、なんも」
「やっかいな人やな」
半分同情的な、だがあとの半分は面白そうに野上はつぶやく。

「やっかいなんて、可愛いモンとちゃうで。せやから俺が折れなしゃあない。献立かて、あいつがやいやい言うさかい、あいつに決めさせてんね」
と、琢己からのメールを見せる。
「今夜は”ハンバーグ”をご所望か」
「その前は”カレー”、その前は”ナポリタン”、”トンカツ”、”オムライス”。もう、小学校の給食か」
大樹の嘆きに、野上は気持ちよく笑う。

「笑いゴトとちゃうで」
言いながらも、野上の爽やかな笑顔に大樹もつられて笑う。
「けど、いっぺん会(お)うてみたいな、その人」
「やめとき。あいつは人をイライラさせる名人や。オリンピック競技に”イライラさせる”があったら、ぶっちぎりで金メダルやで」
「ハハ」
くだらない話で盛り上がる。

「で、その人、なんて名前?」
「琢己、朱藤琢己や」
「朱藤、琢己」
口の中でつぶやいて、野上はアゴに手をあてる。
「なんや、聞いたコトあるような名前やな」

「へえ。”朱藤”なんて、珍しい苗字やけどな」
大樹の言葉に頷いて、野上は時計を見る。
「あ、そろそろ講義の時間や。行こか」
「ああ」
促がされて立ちあがる。
野上と肩が触れるほど近く並んで歩きながら、大樹はすっかり上機嫌になっていた。



それから何日か経って。
「真島、ちょおええか?」
講義が終わって帰り支度をしている大樹のところに、野上が声をかけて寄ってくる。
「かまへんけど」
カバンをどけてイスに座れば、野上も隣のイスに座る。

「こないだ言うてた朱藤さん、まだ部屋に居てるか?」
「ああ」
琢己の名前を聞いたとたん、顔が曇る。
「まだいらっしゃいますけど」
「あの人、どエライ人やで」

「は?」
思わず訊きかえす。野上にしては珍しく、やや興奮気味に話された内容はこうだ。
野上はオンラインゲームが好きで、海外のサーバにも接続するそうだが、当然説明文や会話は英語だ。それを日本語字幕表示にしているのだが、製作スタッフの中にしばしば”TAKUMI SYUDOH”の名前を見るそうだ。

「ほんで調べたら、ゲームの字幕はもちろん、解説本なんかの翻訳も手がけてはる人みたいで」
「へえ」
大樹には野上の興奮はピンとこない。日がな一日ゲームばかりして、部屋は散らかし放題の琢己が、そんな立派な仕事をしているとは、到底思えないし、だいいち、琢己からも彬からも、英語が得意でそれを生業としているなんて話は聞いた事がない。

「それ人違いとちゃうか。あいつがそんなご大層なヤツとは思えんのやけど」
「もし本人やったら、ぜひ会って話が聞きたいんやけど」
「えっ」
野上の気持ちも分からないでもない。野上はもともと琢己のダメっぷりに興味を持っていたようだし、おまけに好きなゲームの話が出来るとなれば、会いたいと望むのも無理はない。

だが、あの悲惨な部屋に野上を招くのは、少し、いや、かなり気がひける。
「なあ、本人に訊くだけ訊いてくれへんか?」
「…ほな、訊くだけ訊いてみるわ」
手を合わせんばかりにそう言う野上を無碍にも出来ず、大樹はしぶしぶ承諾する。

「ホンマか?」
とたんにパッと野上の顔が輝く。
「よろしくお願いします」
そして大樹の手を取って、強く握りしめる。

「う、うん」
初めて触れた野上の手の大きさに、その熱さに、大樹は知らずほほを赤くしていた。




  2012.11.14(水)


月とハリネズミ へ    
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